『たのしく生きる』 No.3578

 この頃何かをしようとするとき、たまにですが、ついて出てくる言葉があります。
「どうせ死ぬんやから、愉しくやろか」
こう思ったらなんでもできるような気がします。そうです。ぼくもほかのひともみんな遅いか早いかでみんな死んでしまうのです。これは、確実に、です。そう、そうだから一回きりしかない人生を面白く愉しくやらんなあかん。 それも、いま、ここで、行動する、ということなんです。そして「愉しくやろか。カナカナカ」と続くんです。太宰治トカトントンじゃないんですが、「カナカナカ」なんです。
じゃ愉しく生きるための心構えをどうすればええんやろか。というか心の起動をどう発奮させるのか、という哲学的な問いを思案し続けて何日も経ちました。そんななかで二つ出てきたことがあります。この二つは、これまで培ってきたことを大事にして正直に生きたらええやないの、ただそれだけだとわかりました。いまよこしまな心(時々出てきますが)はあっちに追いやるようにしながら、それをあたりまえに実践しているだけのことなんです。 
 考え込んで浮かんできたその一つの言葉は、よく使っているデザインという語がヒントになりました。その「デザイン思考」なんです。この思考例えば、自分の部屋をデザインする。自分の好きなものを置いたり飾ったり自分なりにデザインした部屋で、好きなものに囲まれて過ごす、実に楽しいじゃやありませんか。さらにそんな部屋を含めた家をデザインする。これはもっと楽しくなります。それを拡大していったり応用していったらどうだろう。里山が好きな者同士が集まり合って里山をデザインする。いろんな人たちが混ざり合って住んでいる地域を、みんなの希望や夢に基づいてよりよい場を目指してわいわいとデザインする、これは地域の活性化、つまりコミュニティづくりになっていきます。また、人と人とのよりよいかたちやつながりをもとめて人間関係をデザインする。いじめや鬱が流行る昨今のギスギスしたストレスいっぱいの関係から脱して、よりよい新たなコミュニケーションのかたちを創出するとうのもいいんではないでしょうか。
 心構えの一つの手がかりとしてのデザイン的思考。 そしていま、これは真善美の「美」に隠されていると勘ぐっています。だからこれは「アート思考」や「美の思考」と置き換えてもいいかもしれません。目的をつくらず美しく暮らす生きかたです。モノやコトのかたち(デザイン)を思考する、過去や未来の時間をデザイン思考する、・・・この思考や知恵はヒトという生き物のDNAに埋め込まれている、いや、愉しさや喜びを求めて長い年月をかけて培い形成してきた人類の生き延びる生き方(戦術)にちがいありません。カナカナカ。 
 さてもう一つの心の起動は、「野生の思考」、別名「自然体思考」というキーコンセプトが最近見えてきました。これは字数の関係上省略しますが、自由で気まま(ワガママじゃなく、気のままにという意味)に生きるための思考なんです。 他の言葉で言えば、「あるがまま」とか「ありのままで」とか、「素朴、純朴」とか未熟さを抱えた心の持ち方や表し方です。「一切なりゆき」の樹木希林さんの生き方に近いものです。そしてこの「野生」の思考に「品格」とか「高潔」という言葉や多様性を包み込んでいる「寛容」とか「おおらかさ」という言葉を付け足してもいいんじゃないかともおもっています。
こういう二つの思考を大事にしながら愉しく生活していきたいと常々おもって暮らしていると、ときにですがみんなから羨ましがられたり、たまに変人扱いされることがありました。ちょっと変わった人やなあ、という目で見られるのです。でもぼくは、そんなのはまったく気にしていません。というのは、ありのままに生きているし、どうせ自分も含めてみんな死ぬのだから、です。不器用で単刀直入的にしか生きられないバカな自分ですが、一回きりしかないかけがえのないわが人生を愉しもうということなんです。カナカナカ。