壊れてしまった人間

aiueokaki2006-04-02

 最近、知の先端をいく人たちの間で、日本人の悪化的変容として「壊れてしまった人間」が取り沙汰されている。ぼくはそのことで少しコメントを試みたい。


 壊れてしまった人間が増えた、ときく。いま壊れてしまった人間が壊れた社会をつくり、その社会が壊れた人間を量産している、と。壊れてしまった人間は自分が壊れていることが全く分からない。むしろ自分は普通で、正常人だと思っているそうである。じゃ、壊れた人間とはどんな人のことを言うのだろう。一見かれやかのじょは普通の人間である。ちっとも壊れたようには見えない。でもどこかおかしい。何かが決定的に欠如しているのである。いったい何が欠けているのか。それは感情の動きである。人間という文字の「間」、つまり人と人との間が自分の感情から無くなり、単なる快楽だけに生きるヒト科の動物になってしまったという。 言い換えれば、他者とのコミュニケーションを自ら閉ざしてしまい、社会性を持たなくなったヒト、感情の動きが壊れてしまった人間がおそろしく増えてきたそうである。若い哲学者や社会学者は、かれらを「動物化」した人間とか「脱社会的人間」等と称している。


  壊れてしまった人間は自分の快、不快によって行動し、自分の身体的で瞬間的な感覚が絶対化しているという。自分だけがオンリーだと思い、自分の趣味だけに没頭するのみで他が見えない。最近ベストセラーになった『他人を見下す若者たち ー「自分以外はバカ」の時代!ー』(速水敏彦著・講談社現代新書)の帯に、「自分に甘く、他人に厳しい。努力せずに成果が欲しい。すぐにいらつき、キレる。無気力、鬱になりやすい。「悪い」と思っても謝らない。ー若者の感情とやる気が変化している!ー」「・・・・・このように若者を中心として、現代人の多くが他者を否定したり軽視することで、無意識的に自分の価値や能力を保持したり、高めようとしている。・・・・」というのが書かれているが、壊れてしまった人間の具体的な症状は、そんな傾向のある人間のことを言うのだろうか。壊れた人間はその心の根っこに不安や不信を眠らせている。そしてある日突然、いとも簡単に、単に「いじめたかった」「殺してみたかった」「目立ちたかった」「ムカついたから」「腹いせに」という理由で人をいじめたり殺したりしてしまう。また壊れ「動物化」した人間は、強者や権力者に「感動」を吹き込まれたり、強い口調でワンフレーズの言葉をリピートして聞かされたりすると、ポピュリズム政治へ難なく動員されていく。
 壊れた人間は感情的ヒステリーを起こしやすい。テレビ等のマスメディアを通じて火をつけられ、不安や凶悪事件や問題に対して異常なまでのヒステリー症状をきたす。昨今では、子どもの「安全」大合唱、北朝鮮や中国バッシング、公務員や教員バッシングに見られるようなヒステリーを起こしている。


 ところで、こんな壊れてしまった人間が増えたと言われる背景は何だろう。身近な社会的なものとしては、地域社会や家庭が崩壊(共同性の喪失)していって、自分がよって立つ生活世界が空洞化したことがあげられる。市場化したアメリカ型新自由主義グローバリズムの中で、資本制的社会(特に金融資本主義)が貫徹し、競争や効率化、成果主義が進行して、リストラ、派遣社員化、フリーター、ニート層が増えて流動化しアノミー状態をもたらしていることが大きな背景として考えられるだろう。またネットやIT社会の広がりや浸透もいちやくかっている。インターネットはスピードと多様化と自由を進めたが、同時にエゴ、差別、悪、暴力と言った魑魅魍魎が一斉に吹き出してきた。そして映像やゲームを通しての虚構の増幅である。こんな土壌の中から壊れた人間が産み出されていくらしい。
 ところで壊れた人間は凶悪犯とつながっているのだろうか。最近凶悪犯罪が増えたと感じられるが、それは錯覚で件数は減ってきているそうである。ただ凶悪犯罪の場所や時間が不特定になった(白昼や住宅街でも起こる)ことと、引き起こす動機を理解できない犯罪が増加したことがあるという。どうやらこのことが「壊れてしまった人間」と関係しているらしい。(しかしこれらの犯罪に対して監視社会を進めるかどうかはよく考えなければならない。)

 以上、壊れた人間が蔓延してきたという仮説の基に文を書き連ねてきたが、もし本当に壊れた人間が増えているという前提に立てば、どうしたらいいのか、ということである。壊れてしまった人間に救いはあるのか。壊れた人間は壊れたままなのか。そしてこの世界をどんどん壊していくのか。
 壊れてしまった人間などいない、としても、以下のことは言いたいことである。


 三つ言いたいことがある。一つめは、人間関係の中で社会の中で「信」を取り戻すことである。不信、不安の世の中を「信」の世界に変革することである。「信じる」ことをベースにして他者と付き合おうとすることなのではないか。そのためには、今の社会や文化構造を大きく変えなければならないと思う。「信じる」ことを基にした自立的相互扶助、共存共生は「壊れてしまった人間」を「自分をつくりなおす人間」に変えていくことだろう。


 二つめは、「知」のサロンをつくり、増やすことである。このまちに、このネットに、この職場に、この集まりに各々が各々の所で「知」を築いていくことである。マスメディア等に見られるようにあまりにも多い「痴」のなかで、「知」の場をつくっていくことは並大抵のことではないが、「知」のサロンは、隠れている「知」を発掘し一億総白痴化と言われるような「民度の低さ」や 「衆愚」、「ファシズム化」を少しは克服していくことだろう。


 三つ目は、アートを自分の心や生きることの中心に据えることである。私という存在は社会の中にある。アートは、社会の必要としているものの先端にある感性を形づくり、表現する。それは「生きる」ことや「こころ」に深くつながっている。「壊れた人間に何が足りない」と考えるのではなく、「壊れた人間に何が必要なのか」と考えてみる。アートは自分を含めた多くの人々が可能性を維持し続けるための道具として存在しているのでは・・・
”創造性とは従来のような芸術を制作する人々に制限されるものではなく、また、慣習的な芸術についても、創造性は制作に限定されるものではない。だれにも競争主義や成績主義によって隠されてしまっている潜在的な創造性がある。”(ヨーゼフ・ボイス
”優れた芸術は常に社会的だった。”(同上)
 アートとは、存在を移動させるそのきっかけを与えてくれるものである。存在のチャンネルを変えるチャンスのことである。「壊れてしまった人間」をつくり変える。アートはそんな力を秘めているのではないだろうか。



<参考・引用文献>
●『ネット社会の未来像』(宮台真司神保哲生東浩紀水越伸西垣通池田信夫)ー春秋社
大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』
●『現実の向こう』大澤真幸(春秋社)
●「<想像>のレッスン」鷲田清一(NTT出版)
●「アートという戦場」(フィルムアート社