『多様性あるいは雑と子ども詩』 No.3488

                          多様性あるいは雑と子ども詩
                                                                                                                      仲清人
  子ども詩の三つ目の視座として、「多様に見る」ということを考えていたのですが、「多様性」(「雑」と言ってもいい)と子ども詩を結びつける新たな項を起こして述べた方がいいのではないかと気づいて、このようなテーマにしました。
 「多様性」で浮かんでくるのは、生態系。つまり「自然としての多様性」です。そしてもうひとつは、生活の中における「文化の多様性」。それら両者は、子どもの詩と深く関わっているように想えます。
 子どもは弱い存在だと言われます。大人の保護を受け、育児・教育と子どもは守り育てていくものだと。実際、子ども一人では、生きていけません。そんな弱さを持っている子どもが書く言葉(詩)には強度があります。
 わたしたち大人の方から見れば、弱者である子どもは、私たちに力を与えてくれているのです。社会は弱さを必要としています。日々の仕事や生活に疲れている大人は赤ん坊を見て、子どもと接し関わってあたたかい気持ちになり、ホッとします。逆にあまりにも疲弊していると子どもに対して虐待という行為に出る場合もありますが、たいていは子どもを見るとなぜか心が安まり和やかになります。子ども詩を読む場合も弱い者が書いたが故に心を動かされます。
 子どもは雑です。めまぐるしく動き回り、疲れをしりません。さっきあれをやっていたかと思えば、もうこれをやっています。子どもは自転、公転する地球であるかのような動き回る自然です。自然は多様性を本質とします。雑は多様性です。だから自然に近い子どもが持つ雑こそが大切な言葉なのです。子どもは雑を雑なまま受け入れています。したいと思ったときにしたいものをします。遊びたいときに遊び、作りたいときに作り、書きたいときに書きます。自然なのです。子どもは大人に調教されていない限り、大人のように規格的でも無く、効率的でもありません。たいていの大人は子どもの詩を読むと、もう忘れ去っている懐かしいふるさとのような気持ちを味わい自然や人間であることを取り戻します。子どもの詩から力をもらうのです。ここで、「自然としての多様性」と「文化の多様性」がつながるのです。
 詩を読む。わたしたち大人こそが子どもの詩を読むべきだと思います。言葉を学び始めた子どもが言葉を紡ぎ出した詩を読んでほしいのです。特に教育に携わる大人はじっくりと読んでほしいです。詩の世界には、多様性(雑)そのものの世界が隠れています。自然や文化の根幹的なものに出会ってほしいのです。生きることそのものに価値があるということに気づき、多様性(雑)をもう一度取り戻していく流れをつくりだしていきたいのです。詩はじっくり読んだものにとっては、学びほぐしになるでしょう。