『霜乗り野菜サラダ』言葉の展覧会1565 ★元永定正展

aiueokaki2013-03-06

つめたくって
こり こり
美味しい!!
朝とれとれの
むのうやく霜乗り野菜サラダ


日中はあったかいのに今朝も霜が降りていた。
朝食をつくるために畑に行くと、
野菜には霜がかかっている。
そこでアイデア 霜乗り野菜サラダ
老母といっしょに朝めしづくり。
まだ霜にやられず残っていた柚子を入れた
ジャガイモ、玉ねぎ、ニンジン、大根、シイタケ、エノキ、豆腐、ミズナ、白菜、ネギ、野菜たっぷりの味噌汁に、
キャベツ、それに霜乗り小松菜とレタスのサラダ。
野菜たっぷりの朝食できあがり。





※おいしかったが、PM2.5が心配だ。




宝塚市へ寄贈
元永定正
も〜やんのいろだま展
只今、開催中!!



        ***********

宝塚を藝術文化の香りあるまちに!! 

  宝塚アートコミュニケーション(TA*CO)を、武庫川中州の石積み「生」のアート作家である大野良平さんと立ち上げてからもう8年になる。その間、この宝塚でも現代美術が少しずつではあるが市民権を得るようになってきている。阪神淡路大震災17年目にあたる今年の1月17日には、点灯石積み「生」前の追悼式が各新聞やテレビ報道に取り上げられ、なかでも朝日新聞(全国版)のトップに大きくカラー写真入りで載ったのはそのひとつである。
 阪神大震災後、宝塚在住の美術作家らと売布の仮設店舗や宝塚の民家を皮切りに、サンビオラの空き店舗を使った現代美術展・店を創めたのも今から思えば、宝塚の文化振興や活性化から見れば意義あるものだったと断言できそうだ。隣市の西宮における船坂ビエンナーレ伊丹市立美術館界隈の賑わい程ではないが、この宝塚でも美術の力が微々たるものでありながら市民のこころを潤し、まちの活性化をプッシュするようになってきたのではあるまいか。宝塚在住作家の有川浩さんの心を捉えたのもその表れであるだろう(『阪急電車』)。
 そのようななかで昨年の秋、画家である(絵本『もこもこ』等の絵でも有名な)逆瀬川在住の元永定正さんが亡くなられた。もっと生きていてほしかったが無念である。元永さんには宝塚現代美術展・店に出展してもらったり座談会に出てもらったりする等たいへんお世話になった。自宅にも2回寄せていただき、奥さんの中辻悦子さんとご一緒にいろいろお話を聞かせていただいた。かつて元永さんに、この宝塚で空き店舗を使った「元永定正美術館」を建てるのを 構想していることを告げたことがある。本気にはされていなかったが、ニコッとうれしそうな顔をされていたのを思い出す。西宮の生瀬で中辻悦子さんの展覧会やグループ展をやったとき、ぼくの作品出展の話をすると、「もっと出しなはれ。好きなことをやったらいい。やりたいことをどんどんやれ」と言ってくださったことが未だに強く心に残っている。「みんな好きなことをやったらいい。迷惑をかけずに、頑張らないで。好きなことは死ぬまで続ける。我流は一流。ピカソもそう。へたでもいい。金がなかったらないのをやれ」という講演の言葉も甦ってくる。その「好きなことを死ぬまで続けられた」元永さんはもういない。 
 さて藝術文化である。その起源を辿ると人間の営みが見えてくる。わたしたち人類ホモ・サピエンスが「藝術」と呼びうる行為を行いはじめた(幾何学模様やアクセサリー)のは7万5千年前だそうだ。絵画は3万年。音楽は3万7千年前。高度な古代美術は1万8千年前(アルタミラ遺跡)等と、遺跡の発掘から判断されている。今の文字を備えた言葉(文字の藝術)はたかだか5千年前である。こういった藝術の発明がヒトを人間たらしめてきたのであるが、今日ではその営みの大切さがすっかり忘れ去られ、カネに翻弄され、藝術自体も細分化している。しかし人は藝術への郷愁はある。地位や名誉やカネとは関係なく、人はものを作ったり絵を描いたり歌を歌ったり本を読んだりするだろう。現在、藝術は狭い分野に押しやられ、役に立つか立たないかで片づけられているが、人間の営みにとってはとても大切なものだと思っている。
 ところでこの宝塚は小林一三によって、野や畑、温泉の湧き出る所に鉄道と藝術を導入してつくられたまちである。歌や劇、映画といった藝術が宝塚というまちをを育てていった。今では「宝塚」における藝術文化の振興は、名前としてはブランドになっているのであるが全国一律化の波に乗ってだんだんその香りも消えつつあるのが現状である。このように時代に流されるのを手をこまねいて見ているだけでいいのだろうか。かつてのように全国に先駆けて時代を切り拓くことはできないのだろうか。手塚治虫を育てたまち、歌劇のまち、映画をつくったまち(東京とともに)、植木のまち、そして元永定正の住んだまち、最長老の詩人杉山平一や小説家有川浩のいるまち、・・・・。未だ香りはいっぱいたちこめているが、それに蓋をしたままでは悲しい限りである。ああ、なんとかしたい。藝術をもっと活性化の材料にしてこの宝塚というまちを再創造するために何か貢献したい、と元永さんの「もっとやりたいことをやれ」という言葉に背中を押されながら思案しているところである。



(仲清人「ウィズたからづか」2012年春掲載、再録)