道具としての現代思想

goukohahaさん、ご無沙汰です。あなたのギャラリー「R・P」へ行こう、行こうと思いながら未だ行けず終いです(ここ2ヶ月間は大阪方面へは箕面止まりです)。またそのうちに・・・(いつになることやら)。


さてgoukohahaさん、なつかしいポストモダン哲学でしょう。記号は意味するものと意味されるものという二つの要素があって成立すると論じて現代言語論を始めたソシュール。昨日触れた「言語ゲーム論」のヴィトゲンシュタイン。「言語とは制度である」とか「言語によって私たちの行思考や動が制限されている(制度の専制)」と言ったフーコー。言語もまた制度であるから、「制度の専制」から逃れ、制度の主人に人間がなるための思考や実践を試みたデリダ。こういった哲学・思想家たちが新しい今日の道を築いていきましたね。
今日「言語制度=世界」という見方は、言語や制度の専制を否定する方向に向いています。ここから世界をよくする方法が試行されるようになります。そこで「私」という言語ゲームをどのようにして「私たち」の世界をよくするという目当てに合わせられるか、が現代思想の到達しているところです。「私」や「主体」といった分断された個人の中で、各々の「他者」が各々の立場でよくすることを目指しています。
ここで「主体」は個体(個人)には存在しないということを見逃してはなりません。もし主体が個体に存在するのであれば、<よい>や<正義>は常に誰かの<よい>になります。〜これは全体主義にはつながりません。全体主義は個体主義(主体は個体に存在する)の変形したもの〜じゃ、主体はどこに存在しているのかと言えば、それは「共同体」なのです。「共同体」は言語を生み出します。共同体と言えば、国家や民族を想起しますが、それらナショナリズムはたいへん強固な個体主義(個別主義)であり、国家や民族に主体が存在するという考えなのです。
「共同体」は、ジャン=リュック・ナンシーの「共同ー体」やアガンペンの「任意の共同性」、ゴフマンの「共在」につながります。またユングの「集合的無意識」やヴィトゲンシュタインの「私という言語ゲームのプレーヤー」にもなります。
まぁ、詳しくは分かりませんがgoukohahaさん、現代哲学・思想はこの私たちの世界をよくしていこうとするための思考道具にはなります。
では、おやすみなさい。