アートは社会を創造するか

aiueokaki2006-02-07

 最近、社会とアートについてよく考えることがある。そのことに関して少しメモをしてみた。
       ******

アートが社会を変える?!


 というのは大それたことでありますが、かつて社会を変革するのに美術や文学が有効な役目を担った時代がありました。アーツ&クラフツ、ダダ、未来派、ロシア・アバンギャルド、シュルレアリズム、バウハウスフルクサス、・・・・・・等々、アートはそのときの社会の停滞し硬直した価値観を破り、抑圧的なシステムに風穴を開け新しい風を吹き込んで社会を編み直してきたのです。アートの力には底知れないものがあるにちがいありません。でも、未来派のようにファシズムや誤った戦争への道を進んでいった歴史的経験は、教訓としながら心して社会の創造を考えなければならないでしょう。とにかくここで言えることは、アートは作品をつくるだけでなく社会を創造することときわめて深く結びついているということなのです。
 そこでアートと社会の関係を、ひいては社会を創造する現代アートということで脈絡を無視して箇条書きにて提起しておきます。


1.アートは社会のなかで生み出され文化をつくり文化を支える。そして文化を破り、突き動かし、新たな文化を創造することもある。


2.今日、アートが社会に氾濫している一方、アートのジャンルが溶解しつつある現象をみつめて、今何が必要なのか、何が大切なのかを見きわめる力をつけたい。


3.グローバル化が進めば進むほど自分の殻に閉じこもる人たち(狭い視野と無力感、若者の蛸壺化、偏狭なナショナリズム原理主義)が増大し、思考停止のなかで、自分が自分がという(あるいは自分の勝手でしょという)論理に囚われ、不自由に陥っている現在、そういった不自由に気づかせ、そこから解放して自由に転換させるのがアートなのかもしれない。
 まためまぐるしい程スピードをあげる情報社会の中で、委縮し貧しくなった想像力・創造力をアートの力によってよみがえらせたいとも思う。枯れてしまったもの、死語となってしまったものにいのちを吹き込む。そして他者へのまなざしを磨き、共存共生する道へ踏み出す。


4.都市のなかで失われてしまったものをアートによって再生する。例えば、原っぱ、大木、場末、寺社、河原、・・・・
 失われたものに代わるのはアートであるかもしれない。そこではアートは鑑賞されるべき作品ではなくて、ひとつの運動体となる。柔軟でアクティブなそれは、異文化対立を受け入れ異質な人々が共に時間を過ごすことのできる共有空間を作り出し、今ある閉塞した空間をまた別の場にしてしまう力を秘めている。
  アートは都市のすきまや裂け目をこじ開け、そこに「面白さ」や夢、希望をおくりこむ力を持っている。


5.作品づくりだけがアートじゃない。
価値観を押しつけない。欲望を否定しない。すべてを受け入れる無限の器をもつアーティステックな都市がある。例えばアムステルダム


6.私という存在は社会の中にある。アートは、社会の必要としているものの先端にある感性を形づくり、表現する。
  アートは「生きる」ことや「こころ」に深くつながっている。
「私に何が足りない」と考えるのではなく、「私に何が必要なのか」と考えてみる。
「美術は」は自分を含めた多くの人々が可能性を維持し続けるための道具として存在しているのでは・・・


7.創造性とは従来のような芸術を制作する人々に制限されるものではなく、また、慣習的な芸術についても、創造性は制作に限定されるものではない。だれにも競争主義や成績主義によって隠されてしまっている潜在的な創造性がある。(ヨーゼフ・ボイス
優れた芸術は常に社会的だった。(同上)


8.<前衛>の終わり、<運動>の終わり。美術制度を批判し、社会や環境への拡張していく表現へ。新しいパブリックな世界をつくる アクティブ・オーディエンスの世界へ。
アバンギャルド(前衛)から、人々の意識を変えていくアリエール・ギャルド(後衛)へ。


9.アートとは、存在を移動させるそのきっかけを与えてくれるものである。存在のチャンネルを変えるチャンスのことである。
アーティストは新たな創造を求めて、常に時代の最先端を走っている存在です。
     




               ※参考引用文献  
     ・「<想像>のレッスン」鷲田清一(NTT出版)
     ・「アートという戦場」(フィルムアート社)