幻想に埋没する民主主義  ー スラヴォイ・ジジェク

aiueokaki2005-12-28

  トニー・マイヤーズの「スラヴォイ・ジジェク」(青土社)を読んだ。ジジェクは批評や哲学関係の本に度々名が上がっていたので以前から、どんな人なのか、どんな思想の持ち主なのか興味があった。たまたま宝塚駅前の本屋でこの本を見つけた。「哲学、精神分析、映画などのポップカルチャーを結合して文化理論を練り上げるジジェクは、政治的想像力における幻想の役割を暴き出す。リベラル資本主義の幻想を突き抜けて、象徴秩序の変革を透視する・・・」等と帯に書かれていて読みたくなったので、早速買って読んでみた。読んでみて、ジジェクはなかなかいけるなと思った。

 ”ジジェクによれば現代は、ポスト・イデオロギーの時代というよりはむしろ、シニシズムイデオロギーに支配された時代である。ジジェクは、シニカルな姿勢とは「かれらは自分たちがその行動において従っているのが、幻想であることをよく知っている。それでも彼らは幻想に従う」ものだと要約する。この意味でイデオロギーは、ひとびとが知っていることにではなく、ひとびとがやっていることの中に位置づけられる。それゆえに、われわれのイデオロギーへの信念は、アルチュセールの<国家のイデオロギー装置>のような「信仰機械」を信じていることを自覚する以前から、実現されているのである。”

 今日の日本社会を見ていると、このジジェクの思想がピッタリと当てはまるように思える。今の日本人が「やっている」政治や報道、日常の生活の中にシニシズムが忍び込んでいて、気づかないままイデオロギー支配されているのだ。

 ところで「視聴率」「支持率」なんてものは単なるその時の(得てして大衆感情が煽られる場合もあり)目安に過ぎないのに、それがオールマイティでもあるかのようにシステム化されているポピュリズム的現状は実に恐ろしい。よく考えて見れば、民主主義社会とか自由社会、成熟社会等と言われているが、いかに数の論理のみの信仰に陥っていることか、いかにいろんな幻想に支配されていることか。「コイズミマジック」や「小泉劇場」はその最たるものである。

 悲しいかな、それ(幻想)を「知っていながら」、「やっている」ひとがいるのだ。民主主義もポピュリズムを内包し、時の気分に流されてファシズムになる可能性が高まってきている・・・・・・



 ”「民主主義」は、個性をもった人間からなりたっているのではない。・・・「民主主義」は根本的に「反人間主義的」である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無情な抽象化に合わせて作られたものである。・・・  民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。”