手塚治虫がおってん

aiueokaki2005-06-16

   宝塚は面白く楽しい街だ。全国から、いや世界から宝塚を見よう、宝塚を体験しようと続々集まってくる。この街にくると、心が洗われ、すっかり生まれ変わった自分を発見する。そしてまたここを訪れたいと帰っていく。市民はそんな宝塚を誇りに思い、文化や福祉が充実したなかで楽しい日々を送っている・・・・。こんな街が創造できたらなぁ、と時々想うことがある。
 かつて宝塚は新しい文化の発信地であった。歌劇、植木、音楽、映画、・・等全国に先駆けた文化を数々生み出してきた。その一つに「手塚治虫マンガ」がある。今日、日本のマンガやアニメは世界的なものとなったが、手塚治虫の貢献は大である。マンガ・アニメはすべて手塚治虫を通過している。そして手塚マンガは宝塚という街がなければ生み出されなかっただろう、と言ってもいいくらいである。手塚治虫は5歳から24歳にかけて宝塚に育った。かれの創作の宝庫が宝塚にあったことは言うまでもない。
 この3月に、サンビオラの空き店舗や宝塚南口の宝南ショップのフリースペースを使って第7回宝塚現代美術展・店「手塚治虫がおっ展」を企画した。阪神間の気鋭の現代美術作家31名それぞれの手塚治虫に捧げる想いを独自のアートで表現したのである。また、展覧会に先駆けて「手塚治虫と宝塚」(第4回宝塚あーと寺子屋座談会)と題して、マンガ評論家・村上知彦さんと手塚治虫記念館長・村上淳一さん、そして司会役の伊丹市立美術館副館長・坂上義太郎さんのユニークなトークを催し盛況であった。手塚治虫の哲学や心は伝えられなければならないという願いからの試みであった。おそらくこれからも至る所で「手塚治虫」は反復するだろう。「ブラックジャック」や「鉄腕アトム」、それに「火の鳥」等が今日新たにTV放映されているように。
 ぼくは若いときに手塚マンガをほとんど読んだ。そして、マンガから駄文や詩に移行した。だから「手塚治虫」は通過するものだと思っていた。通過したもの、あるいは卒業したものだと思っていた。ところが、だ。「手塚治虫」は現在形であった。21世紀に入った今日の世の中が、おそろしく手塚マンガの世界に近づいてきたのだ。カタストロフ、テロ、戦争、憎悪、凶悪犯罪、悪の露出、不安、・・・・・。こんな世を手塚治虫は、鉄腕アトム火の鳥ジャングル大帝ブッダアドルフに告ぐブラックジャック等を通してしっかり見据えていた。風刺、エロティシズム、ペシミズム、ナンセンス、分身、メタモルフォーゼ、両性具有、ユーモア、愛等々がなめらかな線になってゆるやかに、時に激しく踊っている。今、もう一度「手塚治虫」に戻らなければ、と思う。こんな不安で病んだ時代に必要としているのは手塚治虫の哲学や心なのではないだろうか。未来を担っていく子どもたちにこそ。そんな想いをこめてぼくは作品をつくった。
さて、手塚治虫を生み出した宝塚に戻ろう。先日、岩波新書から出された「宝塚というユートピア」(川崎賢子著)を読んだ。宝塚歌劇礼賛とこの国の文化(モダニズム文化)に果たした貢献等が書かれているが、「地方であることが、負の条件であるどころか活性化の契機になるような時代である」という一文を見つけて嬉しくなった。ところがその文の後、本拠地の宝塚よりも東京の方が観客動員が多いと記されている。宝塚歌劇の大阪・梅田移転の噂も聞こえてくるようになった昨今であるが、宝塚から歌劇を取られたら後に何が残るのだろう、と思う。宝塚撮影所やファミリーランドは無くなったし、「宝塚温泉」も消滅寸前である。宝塚を誇れるものがどんどん消えていく。冒頭に書いた言葉が空転してしまう。なんだか寂しい限りである。ここで、手塚治虫記念館があるじゃないか、と叫びたいのだが、水木しげるの境港や、石ノ森章太郎石巻ほどではない。手塚治虫は生前に「むかし、宝塚という音楽の街があったのです。そこには虫がいっぱいいたし、空を見上げれば星も光っていました。でもいまの宝塚はちがうような気がする。だからぼくにとってのふるさと宝塚は、ぼくの記憶の中にある宝塚なんです」と述べた。手塚治虫の心が忘れられて行くのと平行して宝塚という街も廃れていくのだろうか。「記憶のなかにある宝塚」にはしたくないものである。 (仲 清人)
「ウィズたからづか」6月号(Vol.228)より

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  この4月に、以上のような駄文をタウン誌「ウィズたからづか」6月号に載せた。写真は、そのときの看板と階段影(仲 清人・作)。