『この街に来たら』*No.2696
以前、のじもえさんがぼくの詩を取り上げてくれて地方紙に載せてくれました。ずっと気にかかっていたので、宝山寺のケトロン祭り前に載せておきます。
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この街に来たら
野路 萌
おかきさん(※)の詩を読んでいたら「若い男の背中」というのがあって、こう始まる。
よれっとしたラフな服を着て
ポケットに手を突っ込み
街なかを歩いている
セカセカ歩く人たちを横目に見て
こころのおもむくまま
裸木を触り、新芽を見つけ
川をみつめる
公園のベンチにすわり・・・
と続いていく。爽やかな背中で語りかけるある若い男をうたっている。こんな若い人、今どこかにいるのかな。いたらいいなと思う。
久しぶりに逆瀬川の駅で降りて、バスのロータリーを抜け横断歩道に向かう。信号は赤。私はこの街に住んでいたとき、この信号待ちが少し嬉しい時があった。(もちろん、急いでいないときの話だけど)
それは、(そうそうここにあったね)と、それをじっくりと眺める時間になったから。
いいなあ、ヤマモモ♪
横断歩道を前にした右側の植え込みに、ずんぐり大きなヤマモモの木があるためだ。こんなセカセカした街中にいて、その常緑のごつごつ逞しい姿は、つかの間いつもわたしの中の何かを刺激した。
小さい頃実家近くのお寺「宝山寺」の境内にでっかいヤマモモの木があった。私たちガキ集団は、イチジクでもびっくりグミでもない素敵な味をある夏発見した。その見上げるほどの高い木によじ登って(上の方まで登れたのは兄だった、小さい私は実の採りやすい枝にまでなかなかたどりつけなかった)赤黒いつぶつぶのヤマモモの実をたらふく頂戴した。手も口も真っ赤に染めて。あの種の周りのじゃきじゃきした果肉の歯触りや独特の甘さが今も蘇ってくる。
大人になってからも私はいつの間にかヤマモモの木を見つけるとすぐに実を探し求める癖がついた。(雄株は実がならないよ)
今でも、帰省して宝山寺の周辺を歩いたり夏のケトロンまつりに行ったりすると、本堂に向かう石段の上に、境内からにゅうと木の枝を広げてくる意気盛んなヤマモモの姿が嬉しい。
その日、おかきさんの「若い男」の詩を思いつつ、ふとヤマモモと再会し、おう、会いたかったよ!と思った。久しぶりにじっくりと見た街中のヤマモモは一回りも二回りも背を伸ばし、横へずんぐりと幾本も太い幹を広げ、豊かな葉を足元からたっぷりと茂らせていた。この木の中に隠れたら、かくれんぼ鬼は見つけられずに素通りするよ、子ども3人は忍び込める。木を見上げ、木をのぞき込み、みとれる。
おっと信号が青に変わった。つかの間のこの幸せは私の中で持続する。背をのばし、ほがらかな一歩を踏み出すんだ。
※宝塚在住の詩人 「あいうえおかき言葉の展覧会」詩 「若い男の背中」より
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『若い男の背中』
よれっとしたラフな服を着て
ポケットに手を突っ込み
街なかを歩いている
セカセカ歩く人たちを横目に見て
こころの趣くまま
裸木を触り、新芽を見つけ
川をみつめる
公園のベンチに座り
子どもたちの遊ぶ声を聴く
ポカンと浮かぶ雲と
その向こうの青い空を眺める
夕暮れには
ゆるくつながっている仲間の家を訪れ
夕食をいただく
ありあわせのものでつくったセンスのいい食事
「何もありませんけど」
「いえ、ごちそうです。いただきます」
歓談しながら
時はゆっくり流れる
「いつでも来てください」
型にはまり込んで
時間に追われあくせく
気張らなくても
気のむくままに
食うに困らない蓄えと
そこそこの稼ぎのお金と
おもいと言葉を同じうする友だちと共に生きていけます
若い男は背中でこう言っている
爽やかな背中だ
(『若い男の背中』*No.2490より)
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宝山寺「ケトロン祭り」
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