『あわい こい とき』*No.2483

aiueokaki2015-12-28

今日はあわてててるみさんの入院する病院を訪れた。手術がうまくいって、以前のような苦痛の表情は消え、てるみさんの顔はとても晴れやかだった。「あと、最後に詩を2編程付け加えてください」と数日前に見舞いに来たときに言っていたのを、忠実に書いてくださっていた。ぼくは早速それを持ち帰り、彼女の第3冊目の詩集「てるみの詩(うた)3『あわい こい とき』」を編んでみた。
もうてるみさんとは識字学級で長い付き合いだ。
「年内には必ず仕上げて持ってきます」
「もう後4日しかないよ」
「だいじょうぶです。いけます」
と強気のぼく。今日はぼくの誕生日だ。


   **************


       『あわい こい とき』


          岸本輝美




  送り送られ あわい恋



いつも二対二の四人の友達
たまに二人で合う時は
一本三十円のソーセイジ
一本ずつかじりながら
畑と畑の間の細い道
とりとめのないこと話ながらよく歩いたもの
これでも今流のデートかな

晩になり彼は家迄送ってくれる
借家のぼろの入口鍵など無いのに
「あっ鍵かかってる」
今度は私が送ってくよ
「じゃぁお休み」
帰っても鍵がなければどうして開ける
「心配だからやっぱり送るよ」
「やっぱり開いてない」
送り送られ
しまいには公園のブランコに乗って話してる。
「フフフ、朝になっちゃったね」
ただいま
何処行ってたの
公園でブランコに乗って彼と遊んでた
ご飯ある
あるよ、早く食べな、仕事だろ
うん、行ってきます
寝てないんだから気をつけな

大丈夫
彼はどうしたかな




  しばしの別れ




正月前
彼が家に帰るのを駅に送ってく
「何日に帰って来るの」
「出来るだけ早く帰るよ」
汽車が来た
「じゃぁね」
「次ぎの急行あるでしょ、次にしたら」
「そうしようか」

帰る日決まったら連絡してね。迎えにいくから
・・・・・・・
いろいろしゃべっていると何台も急行通りが過ぎる
とうとう最終になってしまった
「いってらっしゃい」
正月の三ガ日が過ぎると
予定よりずっと早く帰ってくる
そんな彼だった



   彼の家



 ある日。彼のお父さんが病気になったのですぐ帰るように連絡が来た。
「ちょっと帰ってくる、すぐ戻れると思う」
「心配ね、気をつけて早く行ってあげて」

彼が故郷へ帰ってから二三日が経った。
母に、「今迄世話にばかりなってたし、どんな様子か見舞いに行ってこようか」
と言ったら、
「それがいい、行っておいで」と言ってくれた・

一人でいけるかどうか。
でも住所は分かっているし、駅のすぐ近くで一本道を行けばすぐだと、前に聞いていたので行けるよ。
彼に連絡せず、次の日、一人旅。
確かに家はすぐに分かった。
が、想像以上に大きな家。しばらくは声がかけられずに立ちすくんでいた。
思い切ってベルを押すと 彼が出て来た。彼はびっくりしていた。
「どうしたの何かあったの」
私は応えた。
「何もないよ。いろいろ世話にばかりなりながら、
お見舞いもせずにいたので、ここへ寄せてもらおうと。
何も出来ないのに、来てしまったの。お父さんの具合はどうなの」
「あまり変わりないけど」
「まだしばらく帰れそうもない」
「とにかく、家に入って」

「はじめまして、突然おじゃましまして」
「私の家では、何時も親切にして頂いてましたのに。
お父様の体の調子が悪いと聞き、連絡もせず、勝手に伺ってしまい、かえって迷惑をかけたのではありませんか」

彼のお母さん、につこり笑って、
「有難う」の一言。
良かった
「良くおいでなしたな」
ふと気づいた、お母さんの右手、 五本とも指がくっついてぺちゃんこ。
子供の時に石臼で潰したそうな。物を持つことが出来ず、すべて左手でやっているらしい。
そんな様子を見て、初めて会った方たちなのに、いつもの自分になつていた私。

当時は洗濯機など無い時代。風呂場の洗濯板で大きなシーツを洗ってるのを見て
「あのー私に洗わせて下さい。私は家では、家事はすべて私の仕事、なれていますのでーーー」と言うと、
「すいませんなー」
と言って気持ちよくさせてくれた。
洗濯すませ、台所に行くと、不便な右手で物を押さえ、起用に食事の支度をしているお母さんの姿を見て、礼儀知らずの私はまたも、
「手伝わして下さい」と言うやいなや、もう横に行き手伝っている。
こんなふうに、何でもやってしまっていることに気づき、
「すいません、勝手にしてしまって」
 あまりしゃべらないお母さんは、
「助かるよ 有難う」とやさしく応えてくださった。

 一週間ほど手伝ったとき、お父さんは少し元気になられたように見えたので、あまり長いをしてはかえって迷惑かと考え帰って来た。
 しばらくして彼より手紙が来た。
やっぱり父の具合が良くない。仕事が出来ないので、自分がやらねばなりません。兄は東京で帰れず、弟は高校生。父とは以前に一緒に働いたことがあり、自分がやるしかありません。父が仕事が出来るようになれば、すぐそちらに行く。手紙毎日書くし、電話もするよ。それまで元気で 有難う。
 彼の言った通り、手紙や電話が毎日のようにきたが、一度も返事を出さずにいた。返事をしたら、自分の気持ちが迷い忘れなくなりそうで・・・・・。あんな大きな家の彼、私にはとても望める人でないと一年ぐらい返事を出さずにいた。
 とうとう連絡は無くなった。「良かったほかにつりあう人、出来たのだ」と思う心と会いたいと思う心が混ざったままだ。
 彼との出会いは忘れぬ思い出と心の隅におき、働くことに追われる日々が過ぎた。


 
どれほどの月日が過ぎたのか、ある日、何の連絡もなく彼がやってきた。
「お父さん元気になったの」
「違う。今日は何度連絡しても
返事が無いのでここへ来た」
そして彼はこう続けた。
 あれから彼は淋しくて、紹介してもらったひとと付き合っていた。彼女は何時も家に遊びに来た。そして部屋に入り浸り。食事の時間が来ても帰らず、僕が部屋に運んで行くしまつ。母がそんな様子を見て、
「結婚する気なの」と聞いた。そして、
「でもあの子はだめだよ」と言ってから、
彼女ときっちり別れ、私の所に行って、結婚したいなら体一つでいいとお願いしておいで。
しっかり頼んでくるように、と言われ飛んで来た。
 私の家の様子は前に全部話してあるから、気にしないで。
もし今でも僕のことを忘れていなければお願い、一緒に来てくれないだろうか。両親も待っている、と母も言ってくれているし・・・。
 私も彼はずつと忘れぬ思い出の人。
 涙の出る言葉だったけど、やっぱり、あまりに違う家の人。
返事に悩んでいたら、私の母が、
「分かりました、でも本当に身一つしかないけれど宜しくお願いします。今まで苦労ばかりさせてきた。これからは幸せになり」
とスーツケースに着替えを二三枚入れて次の朝、一番列車で送り出してくれた。 
 
私は後先を考えず汽車に乗ったが、しばらくしてどうしたら良いのか、何と挨拶をすれば等と、頭の中がいっぱいになった。
 そうこう悩んでいるまに駅に着いてしまつた。
 玄関を入ると家族で迎えてくれた。
「よう来てくれたね」

「私のような者を迎えていただき、本当によろしいのでしょうか」
と告げてから、こう言った。
 お父さんも元気になられて本当に安心しました。あれからもずっと気になりながら手紙を出す勇気がなく、申しわけありませんでした。このようなお話を頂き夢のようですが、
何と挨拶を言ったらよいのか、私はまともに学校にも行けなかったので言葉が見つかりません。体を使うことなら、たいていの事は出来ますが、まともな挨拶も出来ませんで、申し訳ありません。どうぞ、宜しくお願い致します。
 母も突然のこと故、何もできず、まことに申し訳御座いませんが、どうぞ宜しくお願い申しますと、伝えて下さい、と言っておりました。
 


 両親との挨拶をすませ、二人になった。
 彼と別の部屋に入った時、不安と嬉しさで涙がしばらく止まりませんでした。
 いろいろ、積もる話をしていると、お母さんが入ってきてこう言われた。
 今、兄の縁談話中で式は十一月頃に予定している。その時、いっしょにしょうね。
でも、籍だけは入れておき、と役所から貰ってきた用紙を渡してくれました。
 私は「とんでもありません。お兄さんと一緒にして下さい」と断りました。
そして、彼が迎えにきてくれ言われた言葉は信じていたけれど、ここまで考えてくださって、私を受け入れてくれる皆さんにたいして感謝の言葉もありません。と付け加えました。
 私はとても幸せで、夢を見ているようでした。



 次の日皆仕事に出かけるので、朝早く起きて食事の用意をと台所に行くと、もうご飯は炊け、味噌汁 漬物が出来ていました。その他に何をしようかと考えていると、お父さんが起きてきました。ご飯を用意しょうとしたら テーブルの引き出しから茶碗やお箸を出して、自分でご飯を入れ、味噌汁も入れて勝手に食べられました。
それから食べ終わると自分の使った物は自分で洗い、引き出しに入れ、部屋に帰って行かれました。私がさっさとしないからかと心配していたら、彼が起きてきて心配いらない。家は昔から朝はこうしてきているのさ。昼や晩は皆で食べるけどね。
 じゃあ、私お母さんに買い物を聞いて、買ってきて食事の用意するわね。
 料理といっても、昔から母の作るのを見て覚えた数少ない粗末なものしか知らないけど
店に行き、自分の出来そうなものを買ってきて作ってみた。
 家族の人たちは何も言わず、みんな食べてくれました。
 言葉には出さないが、顔を合わすだけで、優しい声が聞こえる方たちでした。
 特に義母さんは私をとても優しくしてくださいました。着る物、ろくに持たずに来た私に対して、知るはずもないのに、何時の間にか服を買ってきて、だまって私の鞄の上に置いていってくれてることが何度もありました。彼に、
「申し訳ないよ。どうしよう」と話すと、
「母さんの気持ちだから、だまって貰っとき。僕にも責任があるしね。急いで連れてきてしまったから」と応えてくれました。
 そんな言葉を聞き、私はただただ感謝でした。
 私の出来る事といったら、家の中の事を一生懸命させてもらうしかありませんでした。



彼の死
 
 ある日、大掃除をしました。
 昔は盆前になると、私は自分の家で畳を上げ大掃除を何時もやっていたのでやり方は分かりましたが、何しろ大きな家です。畳の数も、半端でなく、一日ではやりきれません。これだけの数、今までお母さん、どうしてやってきたのですか、と聞くと近所に親戚があり、そこの人に手伝ってもらってたとのことでした。でも私は慣れてるし、若いし力もあったので、一人で一枚ずつ運びました。それを見て、お母さんびっくりしておられました。

 昼過ぎ、畳のほこりを叩いていた時、
「電話が鳴ってるみたいです」
「もしもし、何やよく聞こえんがどうしたの?」
「・・・ 事 故 ・・・」
 聞いてると何か様子がへんなので、
「変わりましょうか」
「もしもし電話変わりました、何でしょうか」
「えっ 事故? 家の車が」
家の車が事故を起こしたようです。彼は? 彼はどうなったの?
「とにかく、タクシーを呼び現場にいってみましょう」
私の胸はドキドキ、どうか、たいしたことがありませんように
 心の中で祈りながら現場に着くと、しばらくは言葉が出ませんでした。
 周りは一軒の家も無い山道なのに、ものすごい人だかり。
 片側は山、道の横は川。その川に材木を積んだまま落ち、ワイヤーが切れ、積んでた材木を全部川に落としていた。車は反対側の土手に横向けになっていた。
 川の中には大勢の人たちが材木をどけようと必死になつていました。
私は家の人たちの姿を探し回り、やつと、お兄さんに会えました。
「みんな無事ですか」
「親父は無事だけど、たーと、もう一人の姿が見えない。
たぶんこの材木の下になってるかも・・・」
その言葉聞いて私は頭の中が真っ白。

みんな必死にどけてくれてる。
私は立ってることも出来ず、土手に座り込み、必死で、
「たぁちゃん たぁーちやん」と
彼の名前を呼んでいた。
そんな私を誰か知らないが、後ろから抱え引き戻そうとする。
それを振り切り土手のふちまで這いずり、
川の中に向かって、名前を呼び続けた

 そばにいる人たちは、
「あぶないよ、大丈夫だから、きっと
助かるから後ろで待っていようね」とまた引きもどされた。
 材木といっても一本でも一人で抱えられぬほどの太い大木。
それがトラックに山と積まれ、鎖で巻かれていた。その上に二人は寝てたらしい。
 それが、そっくり川に落ちた。空っぽの車だけが横向きに土手にへばりついていた。
 そんな大量の大木の下で生きているとしても、自分の力では身動きできぬだろうに、ましてや川の中。
 水は少ないが、どんなに苦しい思いをしているだろうと思うと いても、たってもいられない。

 気の遠くなる思いで待ってると、
 「おーい、いたぞ」
 その声を聞き、飛んで行った。
 彼は、救護者に乗せられていた。
 私は彼の横について、頭を抱え、体をさすり続けた。
 彼はまだ暖かさがあったし、傷といったら額に小さな傷と、足首に傷。綺麗な顔で眠っているだけだぞ。
 こんな傷で死ぬ分けない。
 
 私は心の中で彼の名を呼び続け、
 体をさすり続けた。
 私は祈った。



 救護所に着きお医者さんに診てもらった。
 残念ですが・・・
と言われた。
私はしばらく信じられなかった。

 私は彼を家に連れ帰り、綺麗に体を拭き
 着物に着替えて床につかせた。

 その晩は一睡もせず、横に座り、溢れる涙を止めることも出来ず、
 横にいた人から、涙をかけたら、彼が成仏出来ないよ。
 辛くても、我慢しょうねと言われた。

 「ごめんね、たーちゃん」
 あの朝、あなたは一度も言ったことない休みたいことを
 父に電話してほしいと言ったけれど、私はそれを無理に、今日一日だから、明日は休みになっているので頑張って行ってらっしゃい、と送り出した私のせい・・・・・。
 私が死なせたようなもの。




 あなたが家へ昼食に寄った時は、私は買い物に出てて言葉を交わすこともなく、顔を合わすことも出来てない・・・・・。

 葬儀も過ぎても、夜になると、
 私は彼の寝てた布団に入った。

 私が電気を消したとたん、彼が入って来た。
 私は思いっきり抱えられた。
 声を出そうにも身動きも出来なかった。
心の中で必死に彼の名を呼んだ。
 すると、やっと口から声が出て、体も動いた。

 私は起きて仏壇の前に行き、線香を立てて、
言葉に出さず何を言いたいの、と聞いていた。
 こんな状態が毎晩続いた。
 その度に彼の名を呼ぶ声が
 お母さんにも、聞こえていたらしい。

 ある日、お母さんに連れられ、拝みやさんのような所に連れて行かれた。
 そこでお母さんは、何か話していた。
 すると、突然その方がしゃべり出した。
 「悲しいよ 悲しいよ
 何も話せないうちにこんな事になり
みつみちゃんのことが、気がかりでたまらない
 一緒に来てほしい」
 拝み屋さんは、心配しないで祈りなさいと私に言われた。私は言われた通りにしたが、
 それからも、毎晩彼はやってきた。

 お兄さんは、わしが居眠りをしたためこんなことになり、申し訳ないと言い、
 お父さんは、わしが変わっていたらと言った。
 きっと私の様子が、普通でなかったらしい。
 こちらから呼んでおいて、こんな悲しい思いをさせて申しわけないと、みんなから頭を下げられた。わが子、わが弟が亡くなり私以上に辛いのに、私のことばかり気を使わせ
 申しわけなさでいっぱいでした。



 満中陰の法事に、私の母と兄が来た。私のそんな様子を見て、このままではこちらの方たちに、かえって心配をかける、一緒に帰ろうといわれた。でも私は、とてもそんな気になれなかった。百か日が過ぎたら帰ると言い、こちらの、両親にそのことを話しました。
 お父さんは
 「分かった」と一言。
  お母さんは
「すまんかったね。しっかり気持ちを持って、たーの分まで長生きしておくれ」
と涙を浮かべながら
 「あの子の物全部送るからね。一緒だよ」と付け足した。
 私は今までに受けたことのない優しい人たちに出会い、そして別れをしなければならない。私は運命に泣きながら帰ってきた。



あれから

 あくる年、一周忌の法事に行くと、
 「よう来てくれた、元気だったかね」
とお母さんの優しい言葉をかけられた。
 一週間程手伝いをして帰るときも、持ちきれないほど、いろいろ持たせてくれ駅まで送ってくれました。

 家に帰り荷物を開けてかたずけていたら、中に手紙が入っていた。
 お兄さんからかと開けたら、びっくり。お父さんからの言葉と、お金が入っていて
 「元気で頑張れよ」と書かれていた。何も言わず、何処までも気遣ってくださる気持ちに私は感謝でいっぱいでした。


 二年ほど経ったとき、現在の夫に結婚を申しこまれた。何時までも亡くなった彼のことを忘れられないでいる私を見てた母に、結婚するように進められた。
 私は決心して結婚しました。
 それから、彼の両親に手紙で、過去を忘れるため、受けることを決めた。元気で頑張っていますので、安心して下さいと書きました。
 すぐに返事を下さって「よかったね、きっと幸せになってね」とお祝いまでしてくれ、どこまで優しい方達なんだろうと、思うと同時に、何時までも心配をかけているのかと思うと、申し訳なく胸がいっぱいでした。
元気でがんばってます。安心してくださいと、知らせました。すると、すぐに返事を下さって、
「よかった、きっと幸せになってよ」

 と両親は祝いまで入れてくれた。私は何処までも心配をかけてしまっているかと、胸がいっぱいになった。
 もう何も知らすのはやめよう、と便りを出さずにいると、向こうから
 便りが届く。
 子供が出来たと知らせたら、毎年正月には、お年玉が送られてきた。

 宝塚に来たら、やらねばならない事だらけで、気になっても年忌参りにいけなかった。やっと、無理をして七回己に行った時、もう忘れているのではないかと思って居たら、
 集まっていた皆さんが「よう来てくれたね」と迎えてくれた。
それ以来一度も行くことができなかったけど、心の中でどんな事があっても五十回己には必ず行くときめていた。

 ある年のこと。お母さんから、今大阪に来た。宝塚に行く途中で、平井の駅にいる
 此処まで来てくれないか。お父さんから、手紙を預かってきたし、会いたい。道が分からないので・・・と電話があった。 
 私は急いで駅に行った。家に寄ってくれるように言ったが、時間が無いので、元気な姿を見れたし安心した。と言って帰られた。何処まで気にかけてくれる両親の愛情に、私はただ涙の出る思いだった。
 家に帰り手紙を開けると、お父さんの優しい言葉と、またもやお金まで。どれほどまで私のことを心配してくれるか。彼の家族には何も返すことが出来ない私。

 心の中で感謝するしかない。
 長い人生の中、一度も忘れることがなかった。
 辛いとき、悔しい時、いっぱいあった時、乗り越えられたのはこんな人たちがいたから。
 世間のみんながわかってくれなくても、必ずどこかに分かってくれる人たちがいると信じることができ、心を静めることができた。



五十年が経って

 あれから、五十年という月日が過ぎても私は一度も忘れることがなかった。
 必ず墓参りに行くと決めてきたがなかなか出来なかった。
 それがやつと出来たのだ。
 五十年も経っているので、もう忘れられたかと思いつつ連絡をしてみたら、何時でも来てくれたらいいとの返事をもらったので、長い間連絡もせず忘れられているのではと、心配しつつ、早速出かけて行きました。
 駅に着くと、周りはすっかり変わっていた。でも、どうにか家にたどり着きましたが、あまりにも風景が変わっているので、ちょっと気になり、そこに立っている人に尋ねた。すると、
 「よく来てくれたね、みつみも元気でよかった」
と言われびっくりした。
そこに居たのは、お兄さんでした。あまりにふけてしまわれていたので、見違えてしまった。一度、前を通ったときもたしか立っていてくれたのですが、分からなかった。お兄さんは私に気づいて声をかけようとしたが、私は黙って通り過ぎたので、自分の見違えかと思ったそうです。
 長い年月、便りも出さずにいたのに、名前も忘れないで、ずっと一緒に過ごしていたように、笑顔で向かえてくださいました。やっぱり便りはなくても、何時も心においてくれていたのです。
 家に上がり、仏壇にお参りした。やっと来ることができたよ。
「たぁちゃんのこと一日も忘れたことなかった。悲しい時、苦しい時何時も元気をもらい、此処まで生きてこれたの」
 と私は心のなかで伝えました。
 「みつみ、早くおいで、ご飯まだだろう、何もないけど食べよう。剛も来たし」
と言われた。弟の剛くんだ。皆以前よりずっと会話がはずみ、嬉しさ一杯だった。
でもお兄さんも、弟も二人とも、脳梗塞になって不自由な体になっていた。
 それでも元気に働いているとのこと。
 食事をすませ、お兄さんの車でお墓につれて行ってもらった。お葬式の時は土葬だったのに、今は火葬になって立派なお墓になっていた。
 やっと会えて当時のことが走馬灯のようによみがえり、胸が一杯になった。でも、皆がいっしょだったので、本当は声を出していろいろ話したいことがあるのをこらえた。
 今は体が不自由なため現場で働けず、何か難しい資格を取って山に関する仕事をしてるとお兄さんは言いながら、あちこちと回り此処も家の山、此処も、此処もと一杯山を見せてくれた。親父はこんなに土地を残してくれたけど、今はほとんど金にならず税金ばかりはらわなければならんので、金で残してくれたらよかったのに、と笑って言った。
 迷惑をかけないようにとビジネスホテルを取ってくれていたのですが、「お母さん、だめよ、そこは食事も付いてないし狭いから」と言って、そこをさっさとキャンセルして、ほかのホテルをとってくれ、お金まで払ってきてくれた。
 次の朝。お兄さんが向かえにきてくれ、また今まで話したこともないことなどいっぱい話してくれ、こんなにも私のこと思っていてくれていたことが改めて知ることが出来た。もう五十年も経っているので、もう忘れられたかと思いつつ、彼の家族に出会ったが、当時の時より暖かさが、まして迎えてもらった。あの時、話せなかった思い出話をいっぱいしてくれて、本当の家族以上に接してくれた。
 私は幸せ一杯頂いて帰ってきた。


 今の私は、長い差別との闘いに体も心も、疲れはてて時々生きることが辛くてたまらない時が何度もあるが、この度皆さんに出会い、生きる力が湧きました。何の便りも出さないでいたのに・・・、ずっと影ながら、私は支えられて来たことを改めて知らされました。
 くじけてはいけない。
 頑張らなければと、いつも自分に言い聞かせています。 




いつも一緒だ

貧しさの故、私は学校にほとんど行けなかったので
何一つ人並みのことができず
ただただ体を動かすばかりだった
何も賢くなくても 何もできなくても
人として真っ直ぐに生きること
それだけを守って八〇年近く生き抜いてきた

彼とは2ヶ月足らず共に生活しただけだけど
短いようでもとても幸福な日々
私のだいじな大事なあわいとき
一生分の幸せだった

あれから
くやしさ、悲しさ、腹立たしさなどで
何度もくずれかけたとき
うしろから
負けるな、いつも一緒だ
とあたたかい声が聴こえる
私を信じて見守ってくれる心のなかの彼

また生かされた



病院のベッドの上

あのときから五四年間、生きるしんどさに
負けそうなとき
必ず助けてくれて
支えてくれた彼
そして彼の家族

今年もまた暮れようとしている
病院のベッドの上
手術室から無事に帰れるのかとおもいつつ入ったが
入るまでのあの弱気と辛さは
嘘のように消えていた

また助けられた
彼が守ってくれたのだ