『食欲、私欲良く』*No.22401

aiueokaki2015-10-04

食欲、私欲良く
              仲清人




 よくもまあ、つづくもんだ。ああ、こまったもんだ。なんとか少しは止めたいんだけれども、止められない。ああ、どうしてなんだ、ああ、ああと嘆く毎日。
 酒のことだ。
 かかさず飲んでいる酒。友だちと飲む、仲間と飲む、出会った人や来客と飲む、そして一人で飲む。毎日、休まず飲んでいる酒。こんな貧弱な身体によくもまあ入るもんだ、と酒浸りの毎日。ああ、
この嫌な状態から早く脱したいのに、できない。今日こそは、今日こそは、と誓うんだけれど、夕方頃になると無性にアルコールを欲して喉が渇きだす。いや、昼ごろから乾きだすときもある。もうアル中毒患者寸前なのだ。最近は、量も増している。一昨年までは2缶か2カップぐらいで納まっていたのに、そして五年前までは一缶かコップ一杯だったのに・・・。これを書いている今日だって、芦屋時代の元同僚四人で深夜の二時まで飲んでいたのだ。ビールと焼酎合わせて、七杯ぐらいだろうか。夜が明けると頭が鈍い。肝臓や脳もだんだん悪くなっていく。お金がどんどん出てゆく。・・・・・ああ、なんでこんな酒飲みになってしまったんだろう。家へ帰ると、「また、飲んできたの」とカミサンに睨みつけられる。しかしもう度々なのでこの頃はあきらめたのか、無視して放っておかれている。しかし、餃子と酒が混じって帰宅したときは、「くさい、くさい、あっちへ行って」と追いやられてしまうのだ。ほんのたまにではあるが、「どこか内臓の病気ちがうの」と気づかってくれる時もある。
2缶3缶と、ついつい進んでしまうビール。4缶5缶と、ビールでも日本酒でも、焼酎でも、ウィスキーでも、ワインでも、なんでもござれでガブガブガブ、という注釈の下に「李白を越えよ」というつまらぬ詩を作った。「 ぐっとがまん ﹨ と言ってもなかなかできない ﹨ そこをぐぐっとがまん ﹨ 欲を脱して ﹨ 飲まない修行 ﹨ いまのぼくには最大事一番必要なこと ﹨ ぐぐぐっとがまん ﹨ 次の日を ﹨ 爽やかに迎えるために ﹨ ぼくの中の ﹨ 李白よ ﹨ くたばれ!! 」
 ぼくの深酒は身を滅ぼす、一歩手前だ。ああ、李白を脱したい・・・・・。

てなことで、プチアルチューのぼくは、酒と共に人生を送っている。食と言えば、食べるよりも飲むという方が先行している今日この頃であるが、酒に溺れながらの食べることの思索である。
生きているからには、楽しくありたい。面白く充実した生活をおくりたい、というのがぼくの持論である(それで、酒浸りになるのか)。だから生存の基本である衣食住の食も、おいしいものを食べたい、楽しく食べたいということになる。ぼくの場合「おいしいものを食べたい」は酒でかなり充足している。よって後は、つまみみたいなものや腹をふくらますもので十分である。田舎で一人暮らしの時間的比重が増大しているので、ああ、野菜も食べんなあかんな、と思えば裏の畑へ行って、レタスやキクナをちぎってくる(これを書いている今は冬なので畑にはあまり野菜がないが)。夏は青ジソやみょうが、トマト、ナス、キューリ。そして夏から冬にかけては、保存しているジャガイモや玉ねぎ、サツマイモ、ニンニク、それからときたまカボチャを煮たり焼いたり。畑にある柚子を入れた昆布のニンニク酢漬けをとりだす。冬には、隣りからいただいたダイコンをおろす。近所のひとにもらった鹿肉を冷凍室から取り出して野菜と炒める。そんなものを三つ四つ適当にテーブルにのせて、酒とともに食を楽しんでいる。つまり、そこらにあるもので「楽しく食べたい」というふうな食生活を送っているのである。繰り返すが春は、若菜野菜や新ジャガや新タマ。夏は、キュウリ、トマト、スイカ等。秋は、ピーマン、サツマイモ、黒豆枝豆、サトイモ等。栗や柿などが加わる。また春夏秋冬問わず時たま、友だちらや来客が美味しいものを持ってきてくれる。最近知り合った仲間たちで去年から、月1ぐらいで、我が家の畑や野で摘んできた草で「野草を食べよう会」なんてものもやるようになった。まあ、こんなことで田舎の生活では、あまり食費はかからずけっこう楽しんでいる。

 ところで、味のことである。楽しい食生活を送るにはもう一つ、食べ物の味はいつも最大限に感じていたいものだ。ぼくは味には鈍感なほうなのであまり知ったかぶりは書けないが昨秋に、読んだ本の味考を取り入れてこんな偉そうなことを地域の月刊新聞「にしたによいしょ」11月号にこう書いた。
 いよいよ秋も深まってきて、この山里・西谷の山も木も黄色に赤にオレンジにと少しずつ彩りを増してきている。木々に味わいが出てきて、美しさを垣間見させてくれる。紅葉の秋の味わい。・・・・
 食に関する味わいは私たち生きる物にとって贅沢な欲望と言えるのでしょうか、生きる糧の一つでもあります。とにかく食の根本は、「味」です。
私たちは食すとき、舌だけでなく、目、鼻、耳、手触り、そして知識や記憶、あらゆる角度から味わっています。人間は見た目の色や形、香り、カリコリする音、思い出等、五感や記憶等で味わっているのです。その証拠に、鼻をつまんで食べたり、目を瞑って食べたりすると、それは拙いものになります。食わず嫌いと言うのがありますが、その原因は五感の中にあったり、視覚やイメージ、それに記憶が先行してしまったりした結果の食の傾向だとどこかで読んだことがあります。私たち人間にとって生きるための欲望である食は、なくてはならないものであり、それを豊かなものにすると人生もよりいっそう豊かなものになっていくでしょう。食の味わいは幸せにつながります。そして食材や自然を知るだけでなく、自分自身を知り、他人を知ることにもなります。 ・・・・・云々。
 う〜ん、一般論過ぎてカッコつけ過ぎて情けない。
 実を言えば、ぼくは自身の味覚というか味考というか味にたいする味観を持ってる。それは、「スーラ」の味感(観)なのである。印象派創始者のスーラは点描の絵描きであった。筆で点をいっぱいキャンバスに打っていって、絵を描いていって多彩にまるで塗ったようにきれいに仕上げる。「アニエールの水浴」「グランド・ジャット島の日曜日の午後、1886」「サーカス」等、素敵な絵だ。その絵を近づいてよく見ると、みんな点でひとつひとつ描かれている。スーラは、うろ覚えであるがこんなことを言ったそうだ。私の絵は、みんな点でできているが、見る人の目の中で混じり合って絵になる。スーラの点描のコンセプトだ。当時としては画期的な美術史の改革。これを、食の味にあてはめてみよう。ぼくの食べるものは、一つ一つ素材(食べ物)そのものであるが、ぼくの口の中で混じり合って美味しい味になる。
 実際はそうならなくても、このことを試行しながら想像しながら食べているので、美味しく味わえる。いや、口の中の舌でおもしろい味を楽しんでいる、といったほうがいいのだろうか。とにかくぼくは「スーラ」の味感(観)で毎日の楽しい食生活をおくっているのである。どんな不味いものでも、ぼくの口のなかでマジックがかかり美味しくなるのだ。食は想像でもある。

 この頃ぼくは田舎で、食べるのに時間がないときや、めんどうに思ったとき以外は、自分の「アート(藝術)」とともに、「スーラ」の味感(観)で食べることも楽しみの時間に入れている。そして「衣」や「住」はあまり頓着しないので、ぼくの人生はけっこう日々充足している。私の食欲はまあまあ良くもあり、ということで「私欲良く」なのだ。