『「3.11」という分岐点』 言葉の展覧会1098

         「3.11」という分岐点


          
 3月12日 。昨日の巨大地震津波による想像を絶する惨状を見て自失呆然としている時に、神戸の友人から「これから被災地にボランティアに行く。きみは行かないのか」と拙速に問うてきた。今なお被害が進行中なのに「足手まといになるから、まだ止めといたら」とぼくは迷いのなかで答えた。その後、遠く離れた自分にはいったい何ができるのだろうと考えた末、わずかではあるが早速義援金を送ることにした。
  現地の映像を見て言葉を失った。いちめん泥の色となったこの海辺の街には、ところどころ車や船が横たわり、家がへしゃげ逆さになり、すべてがらんどうになった窓から、衣服やら紙やらがちぎれたままいっぱい垂れ下がっている。その下にはコンクリの破片や流木、ドアや家財の破片が泥にまみれ重なりあちこちに散らばっている・・・・。ネットやテレビ、新聞等で映像や写真を見るにつけ、東北太平洋沿岸の街は廃墟としか思えなかった。
 あの16年前の阪神大震災が再び甦ってくる。安眠の世界から、突然、ぼくは持ち上げられ暗闇の中でベッドごといや家ごと大きく揺すぶられた。しばらくして明るくなると周りの世界は一変していた。家の中は倒れたり落ちたりした物で滅茶苦茶。家から出ると、ガスの匂いが漂っている。少し歩くと、道にひびが入り、菰池の前の道は陥没して歪み、電柱は倒れていた。遠くに目をやると売布の駅前市場辺りは傾いた家、崩れた家、・・・・。何日かして売布から山本にかけての国道176号線を通ると、阪急電車の線路にかけての家々はいっぱい壊れていて、スースーして遠くの風景がよく見えた。宝塚の東の外れにある友人のマンションに行くと、崩れ落ちたコンクリートの大小の塊が散乱し、どの壁にもX字型の大きな亀裂が入り、鉄骨が曲がって剥き出しになっていた。ドアは歪み窓ははずれて割れ、怖々室内を除くと下は瓦礫の山のようになり、外から吹き込んだ冷たい風が天井の剥がれかけたコンクリートの欠片を揺らしていた。
 こんな無情な自然、不条理な世界のなかでぼくは再びおもう。自然は美しく、いつも優しく包み込んでくれるのに、どうしてこんなに情け容赦なく惨く冷酷になれるのだ、しかも突然に。地球は私たち万物を生み育ててくれたが、不安定で何をしでかすかわからない。ときにひどい仕打ちをする。おい、自然よ。私たち人間はおまえをコントロールなんてできていなかったんだ。そんな考えは大きな間違いだったってことを知らされたよ。自分たちの傲慢さにも。「自分さがし」だなんて、「地球にやさしく」だなんて。今おもえばなんて思い上がっていたんだろう。ぼくはあらためておもってみる。実は私たち人間は自然(地球)に生かされていたということを。
今なおおびただしい死者や行方不明者。そのようななかで、懸命に黙々と復興作業をする人たち。届けられる伊達正人につづく善意の贈り物。元気をだせ、がんばれ、前向きに生きよう、と被災地や日本だけでなく世界中の人たちがかけ合う勇気づけや励ましの言葉。本当に胸があつくなる。しかし、あの「1.17」を再起すると、被災者の悲しみはそうたやすくぬぐいされない。忘れられない。やがて恐怖が去り深い喪失が薄らぎ、はやる気持ちが落ち着いたとき、悲しみはどっと押し寄せる。だからじっくりと其々の悲しみを聴き、語り合い、ゆっくりと悲しみを受け止め分かち合うしかないだろう。死者とともに。
この「3.11」はこれまで当たり前だと思っていたあらゆるものが壊され、終わりを告げた日と後世に明記されるにちがいない。そして何かが始まる時としても。そんな真っ只中に生きて自分は何かをしなければと考えている。でもそれが今はまだ分からないのだが、一条の光がさし込んできているのがおぼろげながら見える。

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※ふーっ、疲れるー。これまでのメモをもとに、詩を7編つくって載せた。パソコンを触るのも久しぶり。それにしてもこのソフトバンクのポケットワイファイ・カード(という名前だったかな?)は便利である。どんなパソコンにもUSBで繋げばネットができる。連休中いた山口県宇部でも、この宝塚北部の田舎でも。そろそろ夕方にでも(午後からは人に会う約束だから)メールを開けてみよう。もう2週間程見ていない。いっぱいあちこちから来ているだろうな。・・・

※※結局、メールを見たのは翌日(5月14日)であった。田舎から宝塚へ行き、深夜、ピピア・メフで映画『阪急電車』を観た後、館内にタウン誌「ウィズたからづか」(6月号)が置いてあったのを見つけ、手に取りページを繰ってみると、ぼくが1ヶ月以上前に書いた文が載っていた。
*「言葉の展覧会」としてここに載せておきます。*