「投げやり」言葉の展覧会473

ときどき
エイッ
と投げ出したくなるときがある


エイッ こんな馬鹿げた仕事!!
 エイッ こんなイヤな人間関係!!
  エイッ こんなつらい人生!!


何を思っても何を考えても
どう行動してもマイナスに
悲観は悲観を呼び尾をひかん


こんな日は大酒をくらって寝るに限る
エイッ エイッ こんな自暴自棄は止めろ!!





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                以前、宝塚のタウン誌にこんな文を書いた


「宝塚の再創造」再び①
           〜何かが決定的に欠けている〜



 いま都市の中に限界集落が出てきたことが話題になっている。少子高齢化社会に突入した矢先にである。さて十二年前に宝塚の「まちの再創造」を訴えたり、このESSAYでも何度か都市再生の提言(例えば八三回、一〇四回、一〇五回、・・・)をしたりしてきたのであるが、あれから宝塚はどう変わったのだろうか。宝塚中心市街地を見る限り、かつての活力は消滅寸前と言った方がいいかもしれない。何十軒もあった温泉旅館はほとんど無くなり、跡地は無計画なマンション開発、駅前ビルはシャッターが下ろされ、ファミリーランドの閉園によって宝塚市は年間二〇〇万人超の客を失ってしまった。これは時代の流れなのか、住人の自浄努力の不足なのか、行政の先見の明のなさや怠慢なのか、あるいは国策の過ちなのか。
 ここで再び、宝塚中心市街地から「宝塚の再創造」を考えてみたいと思う。
阪神大震災後、宝塚は復興が試みられて整備され、確かにきれいになった。交通も効率よくなっている。住宅もどんどん増えている。しかし何かが足りない。空洞化し、決定的に欠けているものがあるのではないか、と憶測してしまう。ここでは、それが何かを少し探っていきたい。 
 まず言えることが、標準化して「宝塚」らしさが消えてしまいつつある、ということである。全国どこにでもあるような平準化した都市(住宅都市)になってしまったのだ。おそらく震災後の余裕のない開発の中で「宝塚」を組み込めなかったのだろう。またそれをデザインする人材もいなかったからかもしれない。当然、宝塚が「宝塚」らしさを打ち出せないのなら、人の足も遠ざかるであろう。店も畳まざるを得なくなる。
同時に、まちづくりで最も大切にしたいものが薄らいでしまった。その余波を受け宝塚と言えば温泉と歌劇、あるいは宝塚映画、ファミリーランド、植木、手塚治虫等と胸を張って言えなくなりつつあるのではないか。別の言葉で言えば、宝塚にはたくさんのブランドがあるのにそれらを住民が自慢できるということが無くなってきているようだ。それは、宝塚の<本質(DNA)>が変わってきたからだと思われる。ふつうの住宅街になってしまって「宝塚」みたいなものはどうでもよくなったのではあるまいか。宝塚に<歴史>が無くなってしまったのだ。
要するに「宝塚」はいま、市民の生活にとけこんでいないということである。宝塚に何十年も暮らしている私にすら今は「宝塚」の体感はない。かつては、宝塚は近くの住民にとっては富国強兵の灰色の時代の中で唯一カラフルで、ドキドキワクワクの街だったはずだ。小林一三のおかげであるが、なんと言っても全国に先駆けて宝塚モダニズムを打ち立てた街だったから。手塚治虫を生み出したのも、やはり「宝塚」という街があったからだと思う。
  だからもう「宝塚」で<出会い>や<発見>は無くなったし、「宝塚」での<つながり>も失われてしまった。歌劇ファンを除いて、また来たい、何度も歩きたい、あるいはぶらりと歩きたい、ゆっくりくつろぎたい、何か来てよかった得したという街ではなくなったのだ。「宝塚」は限界集落にはなっていないが、進化をし続ける「秋葉原」や「金沢」、「直島」等とは対照的である。
しかし、だ。微々たるものであるが、動こうとしている人たちがいる。この「宝塚」をなんとかしようと思って実行している人たちが いるのだ。今回は、悲観的なことばかりを書いたが、次回は、ポジティブで<希望>や<未来>のあることを書いてみようと思う。「宝塚の再創造」再び②の副題は、「キーワードは『宝塚ポストモダニズム』」である。


                     『ウィズたからづか』2月号2008
                       (あさひ高速印刷株式会社)