2007年初夢  ー <世界>の視座

        2007年初夢 
       〜<世界>の視座〜

 2007年。こんな初夢を見るでしょうか。              
 時代の流れは急流だ。いま、戦後というひとつの時代が確実に終わり、大きな転換点にいる。この転換期は先が見えないので、目に見えない大きなものに流される。どんなことをしていても流される。ついこの間購入した電化製品はもう古いものになり、昨年「スター」になって持て囃されていた人が今日では「悪者」としてバッシング。ヒトもモノ同様使い捨ての対象になり、「負け組」や「弱者」の烙印を押され社会の底辺に追いやられる。大きな流れは、時には過去の亡霊をも引き寄せる。いや、流れに対して身を固めようとするから過去に戻ろうとする、と言ったほうがいいかもしれない。ここ数年のガチガチの右旋回はなんだろう。これまで平和で安全な暮らしの基になっていたものが、賞味期限が切れたとのレッテルを貼られ、なし崩し的に葬られようとしている。流れは魑魅魍魎を引き込む。方向感覚を失い、公共性を忘れ、視聴率獲得競争に専念する今日のメディアは、「欲望」や「エゴ」を増幅する装置となってやたら目先だけで形のみの「感動」や「刺激」を煽り立て人を思考停止に陥れている。その流れのなかで、未来社会を台無しにしてしまうような負の遺産が生み落とされている。格差拡大、ニートやフリーターの増加、ワーキングプアの固定化、労働の劣化、等々。<モノ>も<ヒト>も<社会>も流れている。この過剰なまでの流動性は<心>までも流してしまう。<心>をズタズタにする場合がある。1日に100人近くの自殺者、増える鬱病、引きこもり、少年凶悪犯罪、いじめ自殺、・・・・・。いまや急流は不幸な濁流と化しているようだ。


 こんな急流のなかでも、自分は今、こういう流れ(時代)に生きている、こんな流れ(時代)をつくる一端を担っているという時代認識がとても大切である。さてそこで、急流に棹さす新たな時代認識のひとつを考えてみたい。


 見る目の問題である。流れ(流動性)の激しいときは、とかく視野が狭くなる。視野が狭くなったばかりに、目先のことや自分の殻に閉じこもり凝り固まってしまう。ゆったりと周りや自分を見渡せない。先程述べた現象も見る目の狭さ所以だろう。歴史を見れば、この列島の人たちは、かつてこんな過ちばかりを繰り返してきた。ムラ共同体的無意識は、同調ばかりを命じられて長いものには巻かれ、いとも簡単に流されてしまう性状を形成している。こんな偏狭さも、頭を打って初めて気付く、が忘れるのもはやい。


 さて、見る目を以上のような狭いものから解放されてどうしたら広く豊かにするか、である。簡単なことだが難しい。一つだけの方向で見る目を改めて、多角的かつ複眼的な見る目にすることである。あの「バカの壁」で言われていたように、一元的思考を止めて多元的思考にすることなのだ。そして自分の家庭や学校、会社、国家といった<社会>の視座で見るのではなく、<世界>の視座で見ることなのである。例えば、<社会>の中で起こるいじめや自殺、競争、軍事おたくによる戦争ごっこ(それに向かう性行・欲望)を愚か(バカ)なことだとみることである。<社会>は<世界>に包含される。<世界>とは、ありとあらゆる全体のことである。そこには必ず、他者や異端、外部などが含まれている。それは宇宙的視座といっていいかもしれない。<世界>は規定できないものであり、必ず終わりがある。それ故、<世界>は自分という人間を目覚めさせる。そして自分がまぎれもなく、奇跡的に<世界>に投げ出された希有な存在に気付くにちがいない。<世界>を見る目は、これまで連綿と受け継がれてきた、かけがえのない<生命>に辿り着くだろう。こんな流動性の激しい急流の時代こそ、<世界>の視座を持つことが要請される。


 2007年の初夢は、きわめてグローバル。それは願いであり、希望なのです。こんな<世界>視座の初夢を見たいものです。


        相上おかき
      <宝塚から文化を発信する情報誌『ウィズたからづか』2007年1月号「ショートESSAY・・・第134回」掲載>


※参考文献及び推薦本
●『現実の向こう』大澤真幸(春秋社)
●『戦後の終わり』金子勝筑摩書房
●『サイファ 覚醒せよ!』宮台真司速水由紀子筑摩書房
●『世界共和国へ ー資本=ネーション=国家を超えて』柄谷行人岩波新書
●『世界をよくする現代思想入門』高田明典(ちくま新書
●『もうひとつの日本は可能だ』内橋克人(文春文庫)
●『憲法九条を世界遺産に』大田光中沢新一集英社新書