子どもと安全

aiueokaki2006-03-09

今日、TURUさんからもらったレジメの雑文にいいことが書いてあった。少し自分なりに改文して載せますと・・


今年度、最もインパクトのあったテーマはなんだろう?「子どもと安全」かな。子ども誘拐殺人事件、小6生の同級生殺人事件、同園母親による園児殺人事件、・・・相次ぐ子どもに対する犯罪が後を絶たなかった(あくまでもマスコミ報道から述べているのだが)。地域や学校ではその対処として、集団下校、登校指導、不審者情報メール、地域安全マップ等々さまざまな取り組みがなされるようになった。しかしそこには、子どもの社会性を育む教育とのバランスの難しさがあります。そして、子どもに危害を加えるのは不審者等の外部からだけではなく、内部からの犯罪だってあることが最近の事件から分かり、益々子どもの安全の困難性を浮き彫りにしています。
新聞に造形芸術大学講師(どこの芸大かな。TURUさんに聞いておけばよかった)が意見を述べておられます(TURUさんの取っている新聞は、読売新聞、朝日新聞・・・? ぼくとこは毎日新聞なので、こんな記事は読んでない)。

     ・・・
今問題になっているのは客観的治安悪化ではなく、あくまで「体感」治安というイメージの悪化である。問われているのは、犯罪対策ではなく<犯罪「不安」対策>なのだ。だが、不安解消の対策として、現在のような治安管理の強化は逆効果なのだ。まずは統計の数字や正確な犯罪情報を冷静に見つめ、子どもを狙った凶悪犯罪が増加しているという誤ったイメージを一掃することだ。・・・不安に煽られて、防犯活動を「運動」にするならば、不安とともに排他的な同調性が高まるはずだ。・・・そこには一体性から排除される人たちがいるにもかかわらず、「弱者」の立場への想像力を鈍らせるからだ。
    ・・・
う〜ん、深い!


ということで、短い文をTURUさんは、おわっているのだが、ぼくはこの問題をもう少し深めてみたいと思う。
さて芸大の講師さんの文はなかなか含蓄がある。ぼくも全く同感である。想像力の枯渇は深刻だ。そう言えば、宮台真司が『ネット社会の未来像』(春秋社)のなかで同じようなことを語っていたなぁ。曰く、”「子どもの安全」という言葉がインフレを起こしている”、”「安全」を守るという触れ込みでセキュリティグッズが売れ、でも担保されるのは「安全」ではなく親の主観的な「安心」に過ぎず、・・・”、”「安心」とか「安全」という言葉が呪文のように機能し、複雑な社会問題を見ないために安直に技術に飛びつく、そういう魔術的な信仰みたいなものが、世の中を覆っていると思いますね。”、”「子どもの問題」は感情的なヒステリーを惹起しやすい”、”事態が転がっていく過程で、子どもを守る実効性はそっちのけで、大人の不安を埋め合わせるためのエゴイスティックな道徳的代償行動へと転落するという情けなさです。・・・・・何かというと国家や行政を呼び出すヘタレ保守が、量産されているようになったんですね。社会学ではよく知られたアノミー現象で、子どもの現実というよりも、大人の実存の問題なんですよ”、”この「安心利権」や「セキュリティ利権」に巣くう連中は、「安全」のみならず「体感治安」もまた、治安の一部だとします。そうすれば、メディアを使って不安をいくらでも煽れますから、かれらの利権がまるごと正当化されることになるわけですね”。・・・・・・。う〜ん、政治や経済の問題にまで発展してしまった。でも、宮台真司社会学的分析はなるほどそうだ、と納得がいく。


思うに、「子どもと安全」は、「大人の不安」の裏返しであり、今やこの列島は、「安全」ヒステリー現象を起こしているともいえる。煽れば煽るほど監視社会化は進み、列島住民はよりいっそう「不安」に駆り出され、「不安」に怯えるようになる。そして「安心」を求めるあまり芸大講師さんの言う「排他的な同調性」がさらに高まる。それが高まれば高まる程凶悪的な犯罪に繋がる脱社会的人間等を生み出すことになる。「不安」は人々の無意識に潜んでいく。そんな中で小泉さんに見られる「不安のポピュリズム」政治(不安を利用した衆愚的劇場型政治)は安泰になり、列島の15%ほど(?)の勝ち組・上流階層が潤うことになる。そして魔術にかけられた大多数の人々は知らないうちに・・・・・・・・・されるという構図が浮かびあがってくる。


とにかく今日の「安全」ヒステリー現象をなんとかできないものか。


不安をいかに吹き飛ばすか(解消させるか)が最近のぼくのテーマの一つである。誰か「不安」をテーマにしたベストセラー本や映画、アートをつくってくれないかなぁ。