後天的美人と後天的ブス

aiueokaki2005-08-01

  最初は見たときはとてもきれいで、なんて可愛くて美人なんだろう、と思ってその人と1年ほど付き合ってみると、なんだ、顔や容姿の形だけはいいが、中身がちっともない能面じゃないかと分かる場合がある。また、意地悪な性格なのか時々整った顔が妙に醜く歪んで見える時がある。そういうひとはいわゆる後天的ブスなのだ。年齢が増すとともにどんどん醜くなっていく。老人になったときの顔を想像すると恐くなってくる。
 それに対してあまり見向きもされず、目立つ人に隠れてしまったり、ブスだと言われたりするひとでもよく付き合ってみると、そのひとの心の綺麗な所や面白さを知ったり、とても魅力的で飽きないひとであったりすることがある。そんなひとは後天的美人である。年齢を増すとともに磨きがかかってくる。こんなひとと老後を過ごすのは楽しいだろう。
  ここ1年間で、上記の後天的美人と後天的ブスを発見した。やはり人は見た目ではない。しばらく付き合わなければわからない。もっともずーっと長い間付き合っていても未だに分からない人もいるが、付き合ってみるに越したことはない。

 ぼくは後天的美人が好きである。その人が綺麗になろう、美しくなろうと思って生きる技がそのような美人をつくっていくのかもしれない。後天的美人は心の美しいひとである。でもいま美人だとちやほやされていい気になったり、鼻を高くしたりしていると、やがては醜い者になって容姿まで変貌してしまう。
  形からみる美人というのは相対的なものである。その社会を構成する者らが総意的な価値をつくってしまう。瓜実顔が美人であった平安時代を見てみよ。1000年後の美人の形はどう変わっているだろうか、想像してみると楽しくなる。だから形を今日の流行に合わす必要がないと思う。それにしても、若い人を見ていると、同じような顔が多いのはなぜなんだろう。いま多くの中身のない形美人が、街を大手を振って闊歩している。

 はてさて、ぼくは美人というのは個人領域にはいると考える。形もその裏に隠されたもの、心のありようもひっくるめて美人と称したい。
  ひとよ、中身を磨け。心を磨け。そして表面も少しだけ磨け。

 以上の美人観はぼく自身に向けての言葉でもある。こころを磨かなくっちゃ、ね。




※PHOTO 山本シン写す