子どもの詩を読む


1.子どもの詩を読む視点

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清人


 久しぶりに子どもの詩を読ませてもらった。しかも小学校1年生から中学校3年生まで。かなりの数があり時間が相当かかったが、とても楽しかった。食事をとるのを忘れるくらいだったからとても集中していたに違いない。知らないうちにフーンとか、オオッとか、ハハハハとか声を出しながら選考はそっちのけで読んでいた。読んでいるうちに、子どもの詩を読む視点が6つばかり見えてきた。

 一つ目の視点は、子どもそのものの面白さだ。原初的なヒトという生命体の面白さと言い換えてもいい。5千年ほど前にヒトは言葉を発明したそうで、今それを使うのがあたりまえになっている。個体発生は系統発生を繰り返すと言われるとおり、子どもが幼なければ幼いほど私たちヒト(祖先)が言葉を使いはじめた頃を想起させる。そこでは子どもが使う言葉が、初めての発見や体験の驚きや喜びにリンクする。
 子どもはみな詩人だと言われる。子どもの吐き出す言葉が、大人の常識をやぶり、意表をついていたり、体裁や偏見や虚飾を剥ぎとったりする。それは良くいえば、無垢、純真、純粋なこころでものや人を見ているからである。悪くいえば、無知、単純さ、視野の狭さ、幼児性等の表われともいえる。でもそれらは子どものもつ原初性ゆえであるとぼくは考える。原初的な表現は、齟齬になったり意外性をもたらしたりして面白い。
 もうひとつ、子どもそのものの持つ野生がある。それは野蛮といっていいし残酷さといってもいい。それが短く書かれたもの(短詩型文)のなかに表われたときは、ドキッとするものがある。それは詩とされず、落書きのほうに追いやられるので日の目をみない。良い野生ならいいが、人類の弱肉強食で勝ち抜いてきた暗黒の部分も見なければと・・・。
あともうひとつは、あそびである。「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」という言葉があるように、まさに子どもの子どもらしさは「あそび」にあるとおもう。子どもはあそびやごっこを通じて、人やものとの関わり方や見方を学んでいくのではないだろうか。あそびは人間性を培い、人生の豊かさをつくり、成長をもたらしていくにちがいない。大人になっても持ち続けている遊び心が、アイディアや創造をうみ、社会関係を円滑に楽しくしていく。ある意味では今あるスポーツや芸術、芸能等は、生き伸びる衣食住生活(生存)以外の余剰を埋めるあそびの変調ともいえるだろう。子どものあそびの詩は、人の文化の遡及である。
 なにはともあれ、子どもがそなえる原初性にはとても輝くものを秘めていて、それを書くという行為によって表出して交流し、共有し、内省し、そして楽しむことができる。
その輝きは、年少になればなるほど光り輝くものが多いが、学年が上がっても持続してもちつづけ育てている子もいた。学級や学校で育てるなら、なお素晴らしい。

二つ目は、子どもの生活(暮らし)という視点である。
 かつて生活を見つめて書く、生活綴り方運動があった。家族や自分の暮らしをしっかりと見つめ、綴っていくことによって自分を見つめなおし、それらを共有し合って変革していくというものだっただろうか、記憶に乏しい。子どもの見つめ方は原初性でみたようにまっすぐである。純粋な見方である。それが短い詩だから余計にズバリと的をついているものがある。大人の矛盾も見栄も虚飾も見透かされる。それにしても、母や父、それから兄弟姉妹、そして祖父母との関わりの詩はなんとほほえましいのだろう。身内にくるまれたあたたかなほほえましさだ。「ほめられると心の中にお花が咲くよ」(小二)など読んでいると、あったかい家族の光景が浮かんでくる。生活を見つめて詩や文を書き続けることで、人やものを見る目、社会を見る目が育っていく。
学校での生活は、家庭と違って、他者が多く増えたぶんだけ少しシビアになる。ここでは規律や協力、助け合い、けんか、いじめ、責任、自由、友情等といったテーマが出てくる。家庭ではほほえましかったけんかも、いじめや暴力等に発展する。先生や友だちを書くことによって他者を知り、痛みを味わい、他者との関わり方を考え、社会性を身につけていく。学年を追うに従って、自分を客観視した社会的な詩が多くなってくる。描写力の鋭さや表現の豊かさが見られる詩は、そのまま観察力やこころの豊かさとなって生き方につながり、大人に近づいていく。

以上、子どもの詩を読む二つの視点を自己流に書いてみたが、あと「感性・想像力・変容」の視点、「思考・見る目」の視点、それから「希望・夢・未来」の視点、そして詩にとって(人間にとっても)大切な「言葉・詩」の視点を考えている。それらはまた次の機会に述べたい。
とにかく、子どもの詩は面白く、楽しかった。読んでいるときには、自分の中に子どもがいた。



2.感受性のレッスンと想像力のトレーニング?

感受性という言葉を想うとき、「ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにするな ・・・・・ 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子の鮮烈な詩が浮かんでくる。今日、感受性が豊かなはずの子どもたちに、感受性の不毛という現象が起こっていると学識者は嘆いている。というのは多くの子どもたちが、テレビやネットから、それに家庭や学校や塾等のおとなから知識や情報ばかりが注入される型にはまった惰性的な生活を強いられるあまり、深い喜びも驚きも感じない感動なき毎日を送っているというのだ。としたら、感受性を取り戻さなければならないと思う。が、県下から寄せられた2千人近くの子どもたち(小1〜中3)の詩を読む限り、そんなことはないように思う。いや、不毛の時代だとしても、この列島の津々浦々で詩を書いている子どもたちは、今尚みずみずしい感受性を所持しているんだ、と誇ったほうがいいのかもしれない。ここではしばらく、子どもの詩を感性からの視点で考えてみたいと思う。
 日々私たちは、その時その時の気分で生活し生きている。子どもはそれが露わで素直である。よく泣きよく笑う。また小さなことでも恐がったり、ささいなことでも驚いたりする。子どもの感受性は鋭敏で広く、豊かである。だからこそ突然、激しいものに見舞われることもある。ものすごく腹が立ったり、恐怖のどん底に落とされたり、飛び上がって喜んだりする。あるいは時が過ぎればすぐ忘れるものであるが、深い悲しみに陥って涙したり、どきどき胸がときめいたりもする。感動は詩の源泉であり、原動力にもなっている。子どもの詩がおもしろく強く心を打つのは、稚拙ながらも以上のような 感情の起伏が大きく、幅広く、また直接的であるからだ。それは子どもの生き方そのものである。
 子どもの詩は感受性の上に成り立っていると言っても過言ではなく、子どもたちの生活がみんな違っているように、ある一つのモノやコトを見ても感じ方は千差万別であり、感受性は色とりどりで、いろんな詩がある。その時々の気分や情動を切断して、書き留めておくことはとても大切である。
 だが、歳を経ておとなになって行くにしたがって気分や情動は薄れてゆくようだ。やがて情報ばかりが飛び交う消費生活に溺れ、たんたんと均一的かつ機械的な毎日を送るようになって感受性が弱まり感動なんてものはもうすっかり忘れ去ってしまう。つまり消費や金しか考えない日々の生活に追われて「ぱさぱさに乾いた心」になってゆくのである。ある日おとなは(あるいは自分がおとなになって)子どもの(自分の)詩を読み、感受性の豊かさにおどろき、子どもを(自分を)再発見するときもある。
 ところがおとなになっても、子どもの感動や情操を保持している希有な人もいる。豊かな感性と心を持って、人と接し社会を考えながら楽しく生活を送っている人を何人か知っている。彼や彼女たちの心には、子どもの頃から詩人が住んでいる。この国の未来はまだ救われている。
 さて学校では、情操教育という言葉がたいへんよく使われているようだ。特に教育目標や方法、指導要録に多用されている。それもそのはず学校という共同体や社会においては、時々の我が儘な気分だけではやっていけないし、ぶつかり合いばかりが起こる。その気分や情動を大切にしながらも、社会的価値を備えた、感情の複雑で高次なもの、すなわち情操を養う必要性があるからだ。だが今日、 情操教育や生きる力等と言いながら受験に向けた知識偏重の教育がまかり通って、実際には感受性を養うことは二の次になっているらしい。
 にもかかわらず学校教育において情操を培っていくには、感性のレッスンが一番だと思う。それは国語における詩や綴り方の授業だけでなく、図工・美術や音楽、体育、理科等あらゆる教科において展開されるべきである。特に詩や作文の授業においては、言葉の芸術でもある詩(ポエジー)を中心に置き、日々の生活の中で思ったことや気付いたこと、驚いたことや感動したこと等を書かせたり、お互い読み合ったり、詩人の詩などを読ませたりすることはたいへん必要なことである。見たり、聴いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりする感覚を、詩を書くことや読むことによって鍛えることはとても大切である。日記・綴り方のように日常化(習慣化)するならもっといい。子どもはみな詩人である。子どもの詩にはみんなそれぞれ素敵な感受性が見られる。子どもは感受性によって詩を生みだし、感受性によってみんなと結ばれ、情操を培っていく。それは楽しみや喜びにもなり大きな感動を生む場合だってある。
感受性(感動)は子どもの、いや人間の奥深くに隠されている生きることの証でもあるからだ。
 子どものときにしかできない大事な育て方、それは子どもに詩を読ませ書かせることである。書かせなくても、自ら書きたがり書いている子どもはいっぱいいる。より面白く楽しく生きようと内から欲するものがある。
 最後に子どもが書いた詩を整理してあげ、再び発見させてあげること、これが詩集や詩の本(この『子どもの詩と絵』のような)のよさである。書いた詩を読み合う、読んでまた書く。情操はこのような感性のレッスン(作業)を通して培われ、子どもは成長していく。心の成長である。


 感受性の次は、それと深く結び付いている想像力である。
 最近はよく「想像力」という言葉を目にするようになった。広告や言説などに使われ出したからなのだろうか、「他者への想像力を欠いた振る舞いが多い今日」とか「想像力を不断にめぐらす努力を」、「境界を越える想像力を」等と「想像力」は、巷に溢れ出している。このことは、他者や地球環境とのかかわり方、世界の見方、そして心の有りようにおいてその必要性が出てきた所以であろうか。とにかく、他者にたいしても、社会や環境にたいしても想いをはせることの欠如(ただ殺したいから殺人やいじめ、テロ、二酸化炭素の過剰排出や原発)を埋めるために時代の要請として出てきたように考えられる。どうやら想像力が備われば、憎しみや嫉妬、殺し合いが消え、環境問題も解決し、平和で住みよい社会が訪れるということなのだろう。この傾向は良いことだとも思える。
 としたら、教育に於いても当然、想像力を培う学習が率先して行われてしかるべきであるはずだ。現教科学習にもそれは取り入れられているが、図工・美術の想像力、文学(国語)の想像力、道徳的想像力はもとより、算数の、社会科の、理科の想像力等々、あらゆる教科において今日、想像力は水面下で養成されている、と言ったほうがいいのだろうか。もっとも想像力は各教科といった縦割り制度にはそぐわず、横断的に総合的に、それらの境界を越えて作用するから、教育目標的に取り扱わなければならないのかもしれない。
 以上のようなことを前提に想像力の育成を考えると、より重点的かつ具体的な想像力のトレーニングも浮上してくる。特に力を入れなければならないのは、文学(国語)の想像力とアート(図工・美術、音楽)の想像力、そして身体の想像力(体育、食育)であるだろう。これらの教科は、感受性(情操)を豊かにしていくうえでも、最も適した教科であるだろう。
 さてここらで、子どもの詩に戻ろう。今回の兵庫県下に於ける小一から中三までの一〇〇〇人以上の詩を読んでいて気付いた傾向は、「成りきり詩」が多かったということである。それは全学年を通じて見られた。他者の立場や気持ち、鳥瞰的な視座や思考を養う上で、この詩の指導方法は技法や訓練としては適しているように思える。工藤直子さんが提唱したのだろうか、この「成りきり詩」も一つの想像力のトレーニングであろう。しかし、それはある程度有効で、これが全てではない。一つのステップとして捉え、現実との往還と現実への立地のため次のステップへ行かなければならない。というのは子どものとき、想いを馳せるのはあくまでも自分の生活のなかから、自分と自分をとりまく他者や世界であり、まだ学びの途中であるからだ。「成りきり詩」以外にも、例えば「見えないものを見る詩」、「癒や詩」、困難や苦しみに「立ち向かう詩」、壊れたものや捨てられたもの、駄目なものを蘇えらせ素敵なものにしていく「なんでも宝ものにする詩」等々が考えられるだろう。
 想像力のトレーニングは、トレーニングと意識せず総ての教科、毎日の生活のなかで行わなければならないだろう。なぜなら想像力は今日の文化を支え、突き動かし、明日のより良き自分や社会を創造していく処方箋であるからだ。想像力は創造力でもある。



3. 「見ること」と子ども詩

 今回は、「戦争」や「人権」に関する子どもの詩が若干ありましたので、それらを「見ること」〜「見る目」〜を養うという視点から子ども詩の必要性を述べてみます。
 まず、差別や腐敗、戦争を生み出すものはいったい何だろうか、と考えてみました。考えあぐねた末、貧困な思考ではありますが行き着いたところは、根っこの問題として根底的な要因として身体における「見ること(見る目)」の固定と閉鎖、それに癖(捕らわれ)や歪曲、退化、そして隠蔽という心(脳)の作業があるのではないか、という地点です。 この国、どこもかしこも見ることが溢れています。ネットやテレビ、ビデオにゲーム、広告・・・と、これでもかこれでもかと見ること(情報)を送り続けてきます。ふと立ち止まってみると、あまりにも「見えるもの」に翻弄されている自分を発見してほとほと嫌になることがあります。私たちは見ることの過剰に晒されているのです。過剰さは私たちを無気力にさせ、盲信を生み、共同幻想を形成します。それらが脳内に蓄積していってやがて私たちは利害とからんで一元的かつ一方的な見方を身体ごと刷り込まれ、その奴隷になってしまうのではないだろうか、という危惧が常にあります。昨今のヘイトスピーチや戦争気分への煽り等はきな臭くて怖い匂いがプンプンします。
 だが、よく見てみましょう。それは少しも過剰ではありません。巷にはどうでもいいようなことばかりが溢れて肝心で大切なことが見落とされ、見捨てられているだけなのです。そして一元的な見方(例えば、「成長」や「効率」、「自分探し」が大事で、「格差」が必要、何をするにも「自己責任」を追えだとか)や二項対立的な見方をあちこち多方向から押しつけられています。目は外界から情報を得て脳に伝える身体器官なのでありますが、今日にあっては目は、身体器官だけではなく高度情報化社会の一つの器官となっているような気がします。メディアから様々な情報を得て「なんとなく」 操作されているのではないか、なんだかどこか上の方で一方的に決められたものを全体に下ろされているだけなのではないかと思う時もあります。そんな現実を前にして、なにもできない自分に無力感を覚えたり、自己を失ってしまったりする。それは別の角度からみれば、目の管理をされている、と言えるような気がします。(紙面の都合上、つづきは次回へ)