『気づきの手がかり』*No.2641

  気づきの手がかり


世間の柵(しがらみ)から少し離れて、哺乳類のヒトというのを思考してみるのは面白い。何十年も見聞したり本を読んだりしていると僅かなりに見えてきたものがある。ときには、哲学者の気分になってみるのもいい。
 手掛かりは植物だった。
この列島に棲んでいるヒト科の現在を考えてみた。病んだヒト、オカシクなったヒト、金儲けや何かへの信心のように一方向だけしか見えないヒト等が余りにも多過ぎるようだ(勿論、自分も含めてであるが)。それがまっすぐ生成する植物を通して見えてきたのである。植物や他の動物から見れば、ヒトなんてよこしまで恐い生き物さ、と言ってしまったらそれで終わるが、そうはいかない。生物の中で、いちばんのし上がって地球を支配するようになったからだ。なぜこんなことになってしまったのだろうか。
 私の貧しい頭で、まず考えたのが「都市」である。この国の経済や政治、法律、教育のしくみを考察した場合、一極に集中した東京に代表される「都市」だ。近代以前からその萌芽はあったが、その起源はさておいて今や、歪(いびつ)さを増して歪なヒトを大量生産しているように思える。そのような「都市」を考えるようになったのは、「田舎」に住むことに重心を置いたからだ。田舎への志向は「自然」や「農」、「里山」に繋がっていった。そしていま、それらから再発見した「植物」という通過点である。そこで私なりに見えてきたものがある。
今日の癌や糖尿病等の病気を作り出すものは、偏食や美食、飽食、あるいは貧食の結果なのではあるまいか。美味や珍味、ブランドを求める贅沢食、一色おたく食、インスタント食、遺伝子操作食品等、見栄えや形ばかりを気にするあまり保存料や着色料、農薬まみれの食べ物を日々食しているから哺乳類であるヒトの身体が病に侵されるのではあるまいか、ということが今日よく言われるようになった「野菜をとることの大切さ」から少しずつ分かり始めてきたところである。
 心の病いもそうだ。この国は自殺やうつ病が高水準である。かなり固くて偏ったしくみや組織のなかで、便利や効率、なによりもカネを優先するあまり、日本人的特性のなかで他者との上下や横の関係において、摩擦や擦れ違い、排除等が生じ、心が病んでしまう。貧富の差がもたらす心の病いもあるだろう。植物のまっすぐな生から見ると、異様な事態だ。
こういったことは、環境破壊や温暖化、大地震による人災(原発)、そして戦争などへ直結しているようだ。そこで、解決への一つの手がかりは、植物なのではないか、ということである。今日あらわれている問題は何もかもみんな繋がっている。ヒトを含めた動物をつくり出してきたのは植物なので、植物があればこそ動物が存在できるのでもう一度そこへ戻り、植物の視点から心身の病や社会のしくみを考え直してみるのが必要である。傲慢になり過ぎたヒトはそれに気づいて植物と共生すれば解決の道が開かれるのではないだろうか。一部だけ見ても、分けて見ても結局は何も見えない。見えているつもりでも見えていない。今後植物を通して、さまざまな生き物やつながりが見えてくるものがあるだろう。この齢になっておぼろげながら気づいたことである。まだ気づきの手がかりを得たところであるが。 
 いささか抽象的な言い方になったが、ヒトとして自分はいま何をなすべきか、未来へどう繋いでいくのか、目下私は哲学的思索の中にいる。と、漱石高等遊民のようなことを書いてしまったが、とりあえず自分が病まないように、用心、ようじん。