『再「生」』 言葉の展覧会1112

「生」を消失したのに
どこかのだれかが
またよみがえらせる



孤高にあるのじゃなく
巷の
川の中州にある
石積み
作品の力はシンプルで強く
誰が復元しようと
輝いている
「生」



今日もどこかのだれかが
「生」に気づく





大雨で「生」が流失していた。
「あまり分からへんなぁ」
「わずか、縦棒だけが残ってる」
先日、武庫川中州にわずかに残る石積み「生」の跡形を見ながら大野良平さんと話した会話である。
それから数日が経って、用事で小林に行った帰りのことである。阪急電車今津線に乗って宝塚南口を過ぎたとき、二人連れの若者が窓外(川の方)を見て、「あ、ある」と言うと、何人かが同じように外を見て、「ある、ある」と言っていた。ぼくは反対席にいて見なかったが、「生」もすっかり大衆化したんだなぁ、と思ったのと同時に、跡形でも分かるのかなあと考えた。その後大野さんに会ったとき、「誰かが復元している」と言っていた。そして新聞記事「武庫川中州の石積みアート 消失した『生』誰かが再生」(神戸新聞)である。このような誰かの手による再びの生成は、市民のこころが健全に機能している証拠なんだなあ。また、台風や大雨で流失すると思うが、再生させればいい。
「『生』が消失するというのもコンセプトのひとつ」と大野さん。
「そうやなあ」
どんなこと(災害、災難)があっても生きよう、ということなのかな。