「終末のフール」(伊坂幸太郎)読了!

aiueokaki2006-06-01

もし命が後3年しかないのだとしたら、自分は何を思いどういうふうに生きるのか、と考えながら読んだ本だった。
小惑星が地球に8年後にぶつかる。人類の命が後8年、3年、・・・2年、・・・・・
これは、そう宣告された時の人間の予測観察であり、世界が終わりを告げる前の人間群像である。塞ぎ込んでしまったり、自殺をしたり、恐怖のあまり自暴自棄になって暴れたり壊したり人を殺したりする大勢の烏合の衆はさておいて、ここではしたたかであたたかな最後の人間の姿にスポットライトが当てられている。
最後を知った人間が寄り集まり、関係をカネやしがらみからこころの結びつきに変換し、かがやき、ひびきあっているドラマには感動を覚えた。
いったい自分ならどう生きるのだろう。


次に考えたのが、仙台という街の素敵さである。昨年、一昨年と広瀬川べりの安アパートに住んでいた息子の元へ行ったが、仙台は杜の都にふさわしい、緑いっぱいの実に素晴らしい街である。息子に連れられて彼の通う東北大へも連れて行ってもらったが、小高い、森のなかにある静かな研究機関という名に相応しい大学であった。澄んだ水をたたえ、街の中をゆったり流れる広瀬川。木が中心に備えられた街の通り。うるおい、高尚さ、文化の匂い・・・、品格の備わった街とはこういう街のことを言うのだろうか。伊坂幸太郎の描く世界の最後の人間たちは、このような街でこそ生まれたのかもしれない。小説の舞台が東京や大阪、博多だったらどうだろう(ただぼくの住んでいる阪神、そして神戸や淡路島は、あの阪神大震災の経験があるので、ちょっと違った人間模様を呈するかもしれない)。
仙台へ行って、そしてこの「終末のフール」を読んで、街そのものが上品な人間をつくっているのではとつくづく思った。


最後に考えたのが、死である。伊坂幸太郎は自分が小説を書くテーマは、死と生だと言っている。人生の問題は一つしかない、それは死ぬか生きるかだ。と、誰だったか小説家か哲学者か、あぁ、カミュだったかな、が言っていたのを記憶している。死は自分の生活にぴったりくっついているのに、すっかり忘れて暮らしている。そして自分だけは死なないと思っている。毎日、TVやネット、ゲームの画面、それから新聞や雑誌、マンガの紙面では実に夥しい人の死が出ている。岡田真澄が死んだ、今村昌平が死んだと固有名の死も伝わってくる。死は実に身近なところにあるのだが、まるで他人事である。ぼく自身も、3年前に父、今年の3月に祖母の死を見てきたが、日常はすっかり忘れてしまっている。そして、ぼくは死なない、生はいつまでもある等と思っている。まぁこれが生活する人間の姿なのかもしれないなぁ等とひらきなおってみたりする。できるだけ死を考えないでおこう、と無意識のうちに思っているのが人間だろう。身近な死への接触は、来るべき自身の死に対する馴れや備えなのかもしれない。そういう意味では、「終末のフール」の読書中は絶えず死を喚起させてくれた。自分にとって死とは何か。


「終末のフール」をやっと読了。いい本に巡り会った。伊坂幸太郎もやるな。


※写真は、わが田舎家から畑へ続く小道。