「『見ること』と子ども詩(二)」 * No.3223

『見ること』と子ども詩(二)


 私たちは自分が見るものはみんな正しく見ていると思っています。でも私たちのものの見方(見る目)はしっかり見ているようで見ていないのです。今日の高度情報化社会のあふれる情報の中で、見る目が歪められ損なわれるような目の管理や操作が行われているのではないだろうか、という疑問と危惧を前回示しました。しっかりと正しく見ているようで、見ていない。そして「見えない、見ない、見ようともしない」現代人の心的傾向(固定観念)の打破、あるいは目の管理や操作からの脱却をどうすればいいかを、子どもの詩という視座から考えてみたいと思います。
 ひとつめは「よく見る」という視座です。私たちは日常の中で、見流している物事がたくさんあります。見ているようで見ていない、見慣れたものを見流している、何事もただ遠景として見ている。子どもの詩は、その見流しているものごとから、しばし立ち止まらせてくれます。「おや、子どもはこんなことを見ているんだ」、「ああ、そうだったなあ。あんなことに関心があるのか」、「いや〜、大切なことに気づかせてくれたな」と子どもの詩(目)から大事なものを再発見するときがあります。かと思えば、おとなから見れば、子ども特有の視野の狭い見方や子どもらしい癖のあるものの見方の詩を読んで、思わず「クスッ」とする場合もあります。こんなとき、「よく見る」ということが新鮮な意味を持って立ち現れてくるのです。その必要性を再確認するのです。
ふたつ目は、「ちがって見る」です。別の言葉でいえば、ずらして見る、あるいは概念砕きです。生活を重ねていく私たちは、身近な関係や時代が生み出す次から次へとやってくるあふれる情報の中で、どんどん「思い込み」のドツボにはまっていきます。後から考えたら、「あの時あんな間違いに陥っていたんだなあ」、「今思うと馬鹿で怖いことをよくしていたなあ」、「欺かれていた」ということがあります。思い込みは固定概念を形成し、「先入観」となり、日常生活での慣習や「常識」となり、そこから妄信・盲信や狂信が起こるのです。
 さて子どもの詩ですが、日常生活の中で、家族の中で、こんな見方をしているのかというおとなとはまた違った目で見ている詩が多いのです。違って見るということは、異化して見るということでもありますが、通常見慣れている日常を切り取ることでもあります。それは日常を切り取って別のところ、違った場所にさらしてみることにもなるでしょう。子どもの詩を読んでいると、そんな空間に連れて行ってくれるときが往々にしてあるのです。そして、・・・。では、紙数の関係上、次回につづく。
(『見ること』と子ども詩(一)は、『2016ひょうご こどもの詩と絵 第37集』に掲載)